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デヴィッド・リンチ ”失敗作”の烙印を押された鬼才の幻の脚本が見つかる

低予算映画『イレイザーヘッド』で有名となり、映画界で「カルトの帝王」と呼ばれるデヴィッド・リンチの日常が語られることは少ないと思います。

映画監督であり、脚本家でプロデューサー。ミュージシャンやアーティストという肩書まであり、俳優として映画に出演するなどマルチな才能の持ち主であり、映画界きっての鬼才としても知られています。

2022年にスピルバーグが監督した、監督自身の半自伝的映画『フェイブルマンズ』では俳優として出演し、ジョン・フォード役を演じました。監督のスピルバーグから知人を介して出演を説得され、リンチはオファーを受ける第一条件がスナック菓子の「チートス」を撮影現場に用意することだったと明かしています。

ジョン・フォードもまた映画史に名を残す巨匠であり、フォードの助言がきっかけで、スピルバーグがキャリアを出発させたことが映画でも描かれています。

今回は、映画界の鬼才と呼ばれたデヴィッド・リンチの一面について迫っていきたいと思います。


ジョン・フォード役のオファー


スピルバーグの自伝映画への出演オファーはどのような経緯で行われたのでしょうか。
 
自伝映画の中でも、重要なフォード役をリンチにもちかけるとき、スピルバーグは三年間、デヴィッド・リンチ財団を通じて連絡を取っていたそうです。
 
ニューヨークのDGAシアターで行われた「フェイブルマンズ」の上映後、同じく著名な映画監督のマーティン・スコセッシがスピルバーグにインタビューを行いました。その中でリンチのカメオ出演について尋ねたところ、その時のスピルバーグの回答は次のようなものでした。

「私は、ある俳優にジョン・フォード役を依頼するつもりでした。しかし、脚本家のクシュナーの夫、マーク・ハリスがデヴィッド・リンチに頼んだらどうだろうと提案してきたんです。私は『それは、いいアイデアだ』と思い、すぐに電話をしました。」

その申し出をリンチは大いに喜んでくれたが、答えはノーだった。「自分は俳優でもないし、他のプロジェクトもある。ジョン・フォードはとても偉大だから、それに値する人物になれなかったらどうしよう、と言っていました。彼はちょっと恥ずかしがっていたんです」

しかし、スピルバーグとリンチとの間には、お互いに共感し合えることが一つあり、距離を縮めていくことになります。それはスピルバーグ夫妻が、デヴィッド・リンチ財団を通じて、超越瞑想を熱心に実践していることでした。
 
超越瞑想とは、リラクゼーションに特化した瞑想のことで、マントラを唱えるだけで行うことができると言われています。
 
スピルバーグ夫妻は、三年間、超越瞑想の世界にどっぷり浸かっており、そのことを知ったリンチは、それから急に、態度が前向きになったと言われています。
 
その後もリンチの出演への答えはノーでしたが、スピルバーグはリンチの親友の女優・ローラ・ダーンに相談をしました。次にスピルバーグとリンチが二人で話をしたときのことについては、次のようにスピルバーグが答えています。

「デヴィッドは『フォード役を引き受けることに決めたが、一つだけ条件がある』と言いました。その条件とは、『撮影の二週間前に衣装を手に入れて、それで生活したい』と言ったんです。私は『それを着るということですか?』と尋ねたら、『そうだ、毎日だ』と言いました。帽子も眼帯も全部です。それで、彼は着つぶしたヨレヨレの衣装でやってきました」。

そして、映画への出演が決まったリンチは、公開後にEmpire誌のインタビューに答えました。


映画出演の報酬


Empire誌のインタビューによると、リンチが映画出演時に望んだものは、スナック菓子のチートスだったということです。

リンチによる回答は以下です。

「チートスが大好きなんだ。チャンスがあれば、もらっているね。ヘルシーとは言えない食べ物だから、家の外で食べる機会は逃せない。とはいえ、そんなにしょっちゅう食べているわけじゃないがね。食べる時は、できればビッグサイズの方がいいね。というのも、一度食べ始めたら…徐々にスローダウンして最終的に止められるようになるまで、たくさん食べずにはいられないんだ。小さいサイズしかない場合、もっと食べたいと思って何日も辺りを徘徊することになってしまう。大好きなフレーバーだよ」

このように、当時77歳のリンチはインタビューでチートス愛を熱弁するが、彼の作風同様、どこまでが現実でどこからが嘘かわからない、ユーモラスで悪夢的なリアルな心情の世界に巻き込まれたような錯覚にも陥る名回答のようにも思える。

続けて、リンチは、当初俳優として参加することに少し躊躇ったと明かしています。

「初めはやりたくなかった。もともと私は演技とはなるべく距離を置くようにしているんだ。ハリソン・フォードやジョージ・クルーニーに機会を与えたいからね」

しかし、最終的に『フェイブルマンズ』で演じたシーンを本人は気に入っているそうで、映画の終盤で出てきたリンチ演じるジョン・フォードは、若き主人公に映画作りについて「地平線が下でも上でも面白い絵になるが、真ん中だと死ぬほどつまらん」という簡潔なアドバイスを与えています。

映画での台詞を引用しながらリンチはインタビューに答えています。

「おそらくジョン・フォードはあの若者にいろんなことを教えられただろう。だが、彼は地平線について語ることを選んだ。彼の言う通りだよ。地平線が真ん中だと死ぬほどつまらん」

77歳にして、ここまでシニカルな回答ができるリンチの頭の切れは、やはり鬼才と呼ばれるのにふさわしく、ウィットにとんでいます。

初期のキャリア


リンチのキャリアについて少し触れたいと思います。

1967年、リンチが21歳の頃、最初の短編映画『Six Men Getting Sick (Six Times)』を制作。翌年妻ペギーをモチーフに、アニメーションと実写を合わせた実験的な4分の短編『THE ALPHABET』を作り、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の奨学金を得、ロサンゼルスに移ります。

1971年にAFIコンサバトリーに入学し、4年の歳月をかけて『イレイザーヘッド』を自主制作で制作し、1976年に長編映画監督としてデビューします。

この長編デビュー作には、映画のストーリーと同じように、妻ペギーがリンチのもとを去ったという逸話が残っています。これを含めてリンチは4回の結婚と離婚を繰り返しています。

リンチはこの作品をカンヌ国際映画祭に送ろうと考えましたが周囲に止められます。ニューヨーク映画祭でも上映を拒否されたため、深夜上映のようなアンダーグラウンドな形で上映をすることになりました。その際に、『ロッキー・ホラー・ショー』や『エル・トポ』、『ピンク・フラミンゴ』といった映画とともに、カルト的な人気を博したと言われています。

1980年公開の『エレファント・マン』では批評的、興行的にも成功を収め、第53回アカデミー賞において作品賞を含む8部門にノミネートされ、一躍知名度を上げることになります。また当時、『イレイザーヘッド』のファンだったジョージ・ルーカスから『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の監督のオファーがあったとも言われ、リンチはそれを断りました。

『エレファントマン』のあらすじは、次のようなものです。

19世紀のロンドン。

優秀な外科医トリーヴズは、見世物小屋で“エレファント・マン”と呼ばれる青年ジョン・メリックと出会います。

異形の体を持つメリックの姿を目にしたトリーヴズは、好奇心から彼を研究対象として自分が勤める病院で預かることになります。

言葉を発することなく怯えるメリックを、最初こそ周囲は知能が低い人物と思っていましたが、日が経つにつれ、彼が知性溢れる穏やかな性格の持ち主と知ることになります。

その後、メリックの存在は話題となり、舞台女優のケンドール夫人を始め、上層階級者が彼の元を訪れるようになります。

そのうちトリーヴズは、自分も形を変えた見世物小屋の興行師と同じなのではないかと悩みはじめることになるのでした…。

この映画は、全身に著しい変形や膨張が見られる病気、通称「プロテウス症候群」を抱えた彼の激動の人生を描きだしていきます。

日本では1981年5月に公開され、国内外合わせたその年の全公開作品の中でナンバーワンの配収を記録し、社会現象とも言える一大ブームを巻き起こしました。

手塚治虫が怒った映画


映画好きで知られる日本を代表する漫画家・手塚治虫氏とリンチのエピソードが残っています。

それは、2018年に日本で公開されたドキュメンタリー映画「デヴィッド・リンチ アートライフ」の公開の際にヴィジュアリストで映画監督の手塚眞氏がトークゲストで登壇した際に語られたエピソードです。

このドキュメンタリー映画は、リンチ本人が美術を専攻した学生時代の「退屈」と「憂鬱」、悪夢のような街フィラデルフィアでの暮らし、そして長編デビュー作『イレイザーヘッド』に至るまで自ら語った映画です。
手塚治虫の息子である手塚眞氏の証言によると、ある日。リンチについて手塚氏と父親とで語り合った折りに「父は本当に映画が好きでよく観ていたのですが、『ブルーベルベット』を観て“僕は大嫌いだ!学生映画だ”と、怒っていました。リンチの映画は編集がすごく変わっていて、普通はやっちゃいけない手法を平気でやる。僕はそこが好きだったんですが、父には“安っぽい”と映ったようです」と話しました。

リンチと手塚眞氏の共通点について聞かれると「全く逆だ」と述べ、「リンチは映画作家である以前からアーティスト。アートを志してその中で映画を発見していく。僕は最初から映画を撮りたくて、映画にしか興味がなかった。映画をやっていくなかでアートを見つけていった」と説明したと言います。

「ブルーベルベット」は、1987年公開のアメリカ映画で、あらすじは次のようになっています。

アメリカの田舎町・ランバートン。大学生のジェフリーは病院に父を見舞った帰り道、野原で切り落とされた人間の片耳を見つける。彼はその耳の真相を追い求めるうちに、犯罪と暴力、SEXとSMのアブノーマルな世界に足を踏み入れていく…。

この映画は、不法侵入や覗き見、性的虐待といった倒錯的行為が物語の重要な役割を果たしており、特に性的虐待の描写については公開と同時に論争を巻き起こしたが、結果的には興行的成功を収めることとなりました。

大幅な予算の削減と引き替えに、リンチはファイナル・カットの権利を得て、その才能を存分に発揮した本作で成功を収めたことによって、リンチ本人にとってもこの映画が新たな転換点となったとも言われています。すでにこの作品で、ジャンルを問わず複数の題材を多く盛り込むという、これ以後のリンチの作風を確立させることになりました。

テレビシリーズとカンヌ国際映画祭に悲願の初参加


1984年、リンチによる大河SF小説『デューン』を映画化した『デューン/砂の惑星』が公開されます。自身にとっては意欲作であったが、ファイナル・カットの権利を有していなかったため、配給会社により大幅にカットされてしまい、興行面と批評面の双方で失敗してしまいます。この時の失敗を活かして、大幅な予算カットの代わりにファイナル・カットの権利を手に入れたのが、前述の『ブルー・ベルベット』になります。

そして、1990年代に入ると更なるキャリアを形成していきます。90年から自身が手掛けたテレビドラマである『ツイン・ピークス』がABCにて放送を開始。本作で、リンチは監督だけではなく俳優としても出演しています。

同年には『ワイルド・アット・ハート』でカンヌ国際映画祭に悲願の初参加を果たし、パルム・ドールを受賞します。

ちなみに、11年後の2001年には『マルホランド・ドライブ』で同映画祭の監督賞を受賞しています。

『ワイルド・アット・ハート』は3度目となるアカデミー監督賞にもノミネートされ、2016年にはBBCの企画「21世紀最高の映画100本」で1位にも選ばれました。

また、2006年には、第63回ヴェネツィア国際映画祭にて、映画人として長年にわたり多くの優れた作品を生み続けていることを称える栄誉金獅子賞を受賞しました。

キャリア中 異例の作風


このように輝かしい映画界でのリンチのキャリアですが、1997年の『ロスト・ハイウェイ』を挟んで公開された映画は、彼のキャリアの中でも異例の、これまでの作品と作風が大きく異なっていました。全年齢指定の、老人を主人公にした人情物の映画「ストレイト・ストーリー」が公開されたのは、1999年のことでした。

この映画は、デヴィッド・リンチ監督によるロードムービーと銘打たれ、アイオワ州ローレンスに住む老人が、時速8kmの芝刈り機に乗ってウィスコンシン州に住む病気で倒れた兄に会いに行くまでの工程を物語として描いています。1994年に「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された実話を基にしているとも言われています。

ストーリーを引用しても、過激な出来事や事件が少ない映画なことは想像が出来ると思います。

アルヴィン・ストレイトは娘のローズと暮らす73歳の老人。彼は不摂生のためか腰が悪く、家で倒れても人の力を借りなければ立ち上がることもままならない。

ある日、10年前からの不和が原因でずっと会っていなかった兄が倒れたという知らせが届く。兄が住む家までの距離は350マイル(約560km)。アルヴィンは芝刈り機に乗り一人で無謀とも言える旅に出た。

芝刈り機の故障など、道中で様々な困難にあう。旅で出会う人々は彼を奇妙に思いながらも、ある者は助けを惜しまず、ある者は示唆に満ちたその老人の言葉を得る。

この映画の公開当時は53歳と鬼才とはいえ、初老を迎えつつある年齢ではあるが、リンチがこのような映画を撮影するとは当時の映画ファンの誰が予想したでしょうか。

「非凡のシュルレアリストが描く、世俗的題材への挑戦と達成」といった映画への感想も見られ、乗用芝刈り機に乗った老人が兄に合うために旅に出るストーリーはまさにストレイト・ストーリーで、公開当時若者だった江私には、当時、そのようさは正直分かりませんでした。

過去作品と違う点といえば、リンチによる単独脚本、または共同脚本ではないという点で、つまりは「雇われ監督」といった立場で、リンチはこの作品に参加しているともいえる。とはいえ、作家性の強いリンチが興味のある内容以外を監督するとは考えにくく、愚直で一途で詩的な感情といった実話をベースにした物語の持つ、純粋な部分に少しは引かれたのではないかとう憶測が頭をよぎります。屁理屈的に考えると。リンチが今までに挑戦してこなかった題材を実験的に試みたとも解釈が出来ます。

公開当時のリンチの言葉には次のように残っています。これもまた嘘なのか本当なのかと思わせるリンチマジックだと思うと、つくづく魅力的な監督だと感じざるおえません。

「これは、愛すること、許すこと、そしてそうした人の心の動きをシンプルに描いた映画だ」

デヴィッド・リンチの幻の脚本


そんなリンチの幻の脚本が数十年ぶりに見つかるというニュースが最近報じられました。

リバイバル版の『デューン 砂の惑星 PART2』の公開が2024年の3月に迫っているなか、40年前の1984年にデヴィッド・リンチが監督したバージョンの『デューン/砂の惑星(1984/デヴィッド・リンチ)』も公開されました。

デヴィッド・リンチ版『デューン/砂の惑星』は一部で、“世紀の失敗作”という烙印を押されたいわくつきの作品とも言われています。

そんな中、映像化が実現せずに、長らく行方不明になっていた続編の脚本が見つかったと報じられました。

Wiredによると、昨年カリフォルニア州立大学フラトン校のアーカイブで未完成の脚本『デューン・メサイア』が発見され、このデヴィッド・リンチによる続編脚本は、1965年に出版されたフランク・ハーバートの原作とは内容が異なっているということでした。

デヴィッド・リンチ本人は、脚本の発見についてはコメントをしておらず、1984年版の『デューン』については「失敗であり、今は考えたり話したくない」と述べています。

世に出ることのなかったデヴィッド・リンチのパート2の脚本の代わりに。最新リバイバル版の『デューン 砂の惑星 PART2』が公開されるというのも、この作品の数奇な運命のようにも思えて、興味深いです。

主な作品


映画界でも特殊なキャリアを誇る、リンチの主な作品を最後にまとめます。機会があれば、気になる作品から一度ご覧になってみるのもおすすめです。
 
 
『イレイザーヘッド』(1976年)
『エレファント・マン』(1980年)
『ブルーベルベット』(1986年)
『ワイルド・アット・ハート』(1990年)
『ツイン・ピークス』(1990 - 1991年)
『ロスト・ハイウェイ』(1997年)
『ストレイト・ストーリー』(1999年)
『マルホランド・ドライブ』(2001年)
『インランド・エンパイア』(2006年)

まとめ


作品歴を見る限りでも、長年にわたりリンチ作品が見る者を魅了し、挑発してきたことが伺えるかと思います。
 
映画の内容を理解したり、ストーリーに納得するということではなく、普通とは違った方法で、映画にしかできない強烈な感情を引き起こしてくれるリンチの作品は、これからも語り継がれていくことになると思います。
 
最後にリンチは次のような言葉も残しています。嘘と本当を行き来する映画界の鬼才の才能は尽きることが無いのかもしれません。
 
人間は探偵に似ていて、何が起こっているのか、
真実は何なのかを知りたがる。
――デイヴィッド・リンチ


最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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