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積極的には使いたくない言葉

言葉にすることもなければ意識にもなかったけれど、ぼくらがおもしろがりやっていたことは、いま思えば「場づくり」だったのだと思う。
そして、それをいい歳をした大人たちが純粋に愉しめたのは、やはり利益、儲けありきでやっていなかったことが大きかったとも思っている。

この「場づくり」という言葉、実はぼくがあまり積極的には使いたくない言葉の一つだった。
同様のものは他にも「つながり」「絆」「コミュニティ」などがあって、その最たるものが・・・これは、ご想像にお任せするとして。
だからぼくは今回の話を書くまで以前のブログも含め、一度もこれらの言葉を使ってこなかった。多分。意図してそうしていたわけでもない。
どうやらぼくは、それを前のめり気味に話す人とは距離を置こうとする節がある。きちんと言葉にして説明できないけれど、リアルな人付き合いと同じで、そう感じるものからは距離を置いた方がいい、と勘が働くらしい。

思い返せばこれらの言葉を頻繁に見聞きするようになったのは、東日本大震災以降だった。
あれだけの有事だったため不安に感じた人たちも多く、震災以降にこれらの言葉を散見することになったのは何ら不思議なことでもなかった。だけど、その後あまりにも長く、また多く見聞きしたせいもあって食傷気味となり未だ消化しきれていない感じもある。

言葉自体はもちろん悪い言葉ではない。それどころかこれらの言葉から受ける印象は、人の優しさや温かさ、笑顔だった。ところがいつからか温かく微笑みかける言葉の表情が「目の奥は笑っていない」と、ぼくには感じるようになった。
つまりそれは、目的と謳っている言葉と手段とが倒錯しているように思えたためだった。
率直に書けば、それを過度に口にする人を見るぼくの目は、情報商材屋をやっている人に対するそれと同じようなものになっていった。

無論すべてがそうだと思っているわけでもない。そういった活動を生業としている人なら生活をしていくために当然稼ぐ必要がある。またその活動や組織を維持運営していくためにも経費は必要で、そこに金銭のやり取りが発生するのも必然のこと。それはパン屋さんや飲食店などと何ら変わらないし、ぼくはどんな会社や組織であっても稼ぐこと自体は重要と考えている。
ただ、お店もそうだけれど「場づくり」「つながり」「絆」「コミュニティ」を謳い人を集めるのだから、それを健全に運営、維持継続するための「手段としての稼ぐ」であるといいな、と思う。

ま、ちょっと心配になる純粋な若者が身近にいたこともあって、そんなことを思ったりした。

ぼく自身は、これらの言葉やそれを前のめりに話す人とは距離を置く考えに変わりはないけれど、これもぼくの狭量さゆえの偏見だろうし私感に過ぎない。
それと「場づくり」という言葉に限れば、やはりこれ以上の適当な言葉が見当たらない気がするんだな。
そんなわけで今回は、「場づくり」という言葉を使っている。

つづく


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