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庵野秀明監督と山崎貴監督

このタイトルを付けると、「シン・ゴジラ」と「ゴジラ -1.0」の話かと思われそうだけれど、あくまでも本題は監督の属性についての話。

少し前、「ゴジラ-1.0」公開記念として開催された「シン・ゴジラ:オルソ」上映前のトークショーに庵野監督と山崎貴監督が登壇されたものを視聴し、これが二人の ”らしさ” が出ていて面白かった。
ぼくは、この二人を対極にある者同士だと思っているけれど、年齢差は4歳程度なので世代間による違いと呼ぶほどのものはない。
今回、「ゴジラ -1.0」のおかげで最近の山崎監督のインタビューなどに触れる機会も多く、それらによって改めて二人の違いを知ることができた。

庵野監督はアニメーター、アニメ監督を経て実写映画監督へ行かれ、山崎監督はCGやVFXの技術者でありながら映画監督になられたことは周知かと思う。
その後、時代と共に技術が進んだことで入口は違えど二人に共通する部分が出てくる。それがCGやVFX、そしてゴジラだった。

庵野監督による「シン・ゴジラ」に登場する兵器などは実物もあるけれど、ゴジラを含めその多くがCGだった。
このトークショーでも山崎監督から「シン・ゴジラはCGだったじゃないですか」と突っ込まれてなお、「ぼくは、あくまでも ”特撮” だから。CGを使っても着ぐるみを再現してるから」と返すところが庵野監督らしくて面白かったけれど、このときのCG、VFXを手掛けたのが山崎監督が所属されている映像制作プロダクションの白組だった。
無論、山崎監督の「ゴジラ -1.0」も白組によるもので、ゴジラはフルCGで描かれている。
「シン・ゴジラ」から「ゴジラ -1.0」までに7年の歳月を経ているので技術的に当然進化はあるだろうけれど、庵野監督が自分のやっていることは ”特撮” と言い張られても技術的な手法は近いのだと思う。

そういった経歴や技術的なことでなく、他にも二人の根源的な違いが何かあると思っていたけれど、それが恐らく「叩き上げか、そうでないか」だと思うようになった。
山崎監督のドキュメンタリーも観たけれど、仮に庵野監督の現場があの通りなのであれば(「シン・仮面ライダー」や「シン・エヴァンゲリオン」のドキュメンタリー)、こだわりが強いという二人の共通点を除けば、まったく真逆といった印象を受ける。

庵野監督はアニメーターからではあるけれど叩き上げであることは間違いないだろうし、山崎監督に至ってはご自身が笑顔でこう話されている。

「横入りです。監督に怒られてすごい苦労しながら一歩一歩上がってきた人にとっては、許し難い存在だと思いますね。叩き上げられた覚えがないですからね」

山崎監督の現場からは、不条理、軋轢、不信感、苦笑といったものが微塵も感じられない。

「普通だと監督は天の上の感じ。何か言うこともはばかれる。山崎監督は一番下一番若いスタッフにもいろいろ意見を言わせる(機会)を作ろうとしている」

「考えることが面白いなって。それをみんなで共有するのが上手で、みんなで作っているのが楽しいというのが一番あるんじゃないですかね」

スタッフさんのコメントはこの通りで、それでいて「最終的なクオリティーの詰めの段階になるとなかなかOKが出ないですよね」といったこだわりもある。
完成近くの作品をスタッフとチェックする試写のシーンでは、前列の真ん中に座った監督が「山崎さん座高が高い」「頭が邪魔なんですよ」とスタッフからイジられる。
ドキュメンタリーの映像が仮にどちらも普段のままなのであれば、完全に山崎監督の方が人心掌握に長けている。

観客を置き去りにしても自分のやりたい表現をしようとされる庵野監督と、ものすごくこだわりを持たれながらも間口は広く、幅広い層を対象としたエンタメとして成立させようとされる山崎監督。
タイプが正反対と思う二人の監督が撮られたゴジラは、甲乙付け難いどちらも傑作だった。

エンタメの創作現場では、キャリアの作り方として恐らくいまでも叩き上げの方が圧倒的に多く山崎監督の経歴は異端だと思うけれど、山崎監督のように才能はあるけれど叩き上げ経験のない人たちが今後増えはじめてきたらエンタメの創作現場も少しずつ変わっていくのかな、と思った。
いや、Wonder Studioのような驚きの技術が手軽なものになる時代なのだから、きっと映像業界も変わらざるを得なくなるだろう、と思う。

実はこれまでもそうだったけれど、これまで以上に「どれだけやってきたかよりも、何をやってきたか」が重要になる気がする。



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