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周回遅れのコロナ感染

 2週間前の週末、妙な発熱の仕方をして、近所のクリニックでコロナウィルスの陽性反応を確認。周回遅れも甚だしいコロナ感染者となった。
 心臓に病気を抱えて、皆が恐々として逼塞し続けた間、徹底的に防御しまくったというのに、今さら感染とは流行への感度の低さに我ながら呆れる。
 隔離もなく(もとより一人暮らしだから隔離もへったくれもない)、セルフ自宅軟禁の間の行政の手助けも、無料の検査もなく、ただ「残念、コロナです」と言われて終わる間の抜け方に気が抜けてしまった感じだった。

 変異を経てウイルスが弱体化したのか、はたまた5回も打ってきたワクチンの効果か、それとも馬鹿にはコロナも反応しづらいのか、37度後半から38度前半の発熱が3日ほど続いただけで回復をした。
 症状も発熱以外は何もなく、熱が下がった後の後遺症的なものも多少の眠気とだるさがある程度で、普段とそれほど変わらない。
 5日間の自宅待機の間は一歩も出ずに、いつも通り食事を作り、小説を読み、眠気が出れば眠り、の繰り返し。
 元々が松尾芭蕉型というよりも圧倒的鴨長明型なので、閉門蟄居、岩山の洞穴の仙人生活、籠の鳥、座敷牢的な生活はさほど苦にならない。
 1日の最長不倒距離が片道8歩の自室のベランダであっても1日を愉しく過ごすことはさして難しくもなかったし、どこかで毎日を快適とすら感じていた。

 「想像力に限界はない」とよく言う。
 確かに狭い部屋の中で5日間こもっていても、ベランダに出る程度の自由があれば、あとは想像を働かせて楽しむことで最低限の快適さは得られる気がした。
 窓のない密室に閉じ込められていたら話は別なんだろうが、外の光が見えて、窓を開けて外の空気と入れ替えができるくらいの外界との接触でも足りるとわかったのは、自分の限界ラインを引きなおしたような感じだった。

 何につけても僕はすぐに「2:6:2」の割合を当てはめてみる癖があるんだけれど、世の中の6割ぐらいの人は想像力のことなど気にすることもなく日々暮らしている。今日と同じ明日が繰り返されることに辟易としながら、やがて今日と変わらない明日がやってくると信じて疑わない。だから突然やってくる非日常にどう対処すればいいのかに戸惑う。

 その点、僕のようにとにかく疑ってかかるところから入るロクでもない性格は、常に転ばぬ先の杖——往々にして杖だと思っていたものが細い枝でしかなかったりするのだが——を用意している。
 コロナの5日間はいつかやってくる大きな地震災害への備えを試す機会にもなった。
 食料、水分、薬等々、自宅に備蓄してあるもので足りるのか、不足するものは何かを具体的に目にすることができて、いくらか大袈裟に言えば得難い経験になった。
 転んでもただでは起きない貧乏性もたまには役に立つものだ。

 それにしても、自分が流行に対して鈍感、そもそも興味と関心が薄い体質なのはわかっていたけれど、こんな時期になって「いや、実はコロナに……」と伝えることの恥ずかしさと言ったらなかった。
 友達連中は「お前らしい」と笑っていたけれど、関心の薄さも程度の問題なんじゃないかと……。

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