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毒親の弊害②〜性依存症への道〜

こんなの書いて大丈夫なのだろうか、と思って書いた前回の記事ですが、読んだ方が好意的にコメントをくださって救われました。
また、こんなの書いて大丈夫なのか不安はありますが、続けてみます。


両親の性行為を目撃したことで、「性行為は気持ち悪いもの」「行為と愛情は無関係」「女は男に従順するもの」といった価値観が深く根付いたと前回の記事で書いた。

土建や造園を生業にしていた父は、そもそも家にいることがほとんどなく、仕事に行くか、パチンコに行くか、飲みに行っているかのどれかだった。
休みの日に気が向けば私や弟を遊びに連れて行ってはくれたが、母が同行することは少なかった。家に帰ってきても「用足し」に行くといって、あまり寄り付かなかった。母もどこに行くのか、何時に帰ってくるのかなんて、父に聞くことはなかった。家で父と食卓を囲んだ記憶はほぼない。父にとって家は寝るだけの場所だった。

母は父の身勝手さにいつも不満で、父は文句ばかり言う母が面倒だったのだろう。上機嫌で酒を呑んで帰ってきても、母の小言で気分が削がれる。酔った父はときに母に暴力を振るった。子供がいることなどお構いなしで怒鳴り合いの喧嘩をするか、お互いの存在を無視し、会話もない状態で不穏な空気を出すかのいずれかだった。

喧嘩するほど仲がいいというレベルをはるかに超えていた。それくらい夫婦関係が冷え切っているのに、裸体を合わせる。
母が本当は嫌がっておらず、父にむやみに乱暴されているわけではないと気づいたのは、翌朝にいつも、あからさまに母の機嫌がよかったからだ。
太っていようが、冴えない専業主婦だろうが、酔った父の性欲のはけ口だろうが、女として扱われていることに存在価値を感じていたのかもしれない。私にとって母は母でしかなかったので、「女の部分」を見るのがとてつもなく不快だった。

なんでこの人たちは結婚したんだろうといつも不思議だった。(両親はお見合い結婚ではなく恋愛結婚だった)
両親を見ていたら、性行為と愛情は無関係と思わざるをえなかった。「愛情」なんて微塵も感じない、2人の「欲望」の表れでしかなかったから。

閉鎖された家庭環境で、何が普通かなんて知る由もなかった。
小説や漫画の世界だけではなく、どうやら世の中には愛から派生するセックスも存在していると知ったのは、ずっと後のことだ。

セックスが子供を作る行為だと知ったときは吐き気がした。
小4のとき、私にもう1人の弟ができたのだ。
母は妊娠を後悔していた。妊娠が発覚したことを誰かに電話で告げていたときのことを覚えている。「こんな歳で恥ずかしい」「できれば産みたくない」と母は電話口で言った。母は33か34歳だった。欲望の結果で宿った命に対する無責任さに腹が立った。悩みに悩んで、母は産んだ。未熟児で産まれてきた弟は、本当に小さくて儚い存在だった。
この赤ん坊が、あいつらのあのおぞましい行為でできたものだとは、到底思えなかった。産まれてくる前の母の言葉で弟が不憫に思えた私は、弟を自分の子供のように可愛がり、産後くたびれてしまった母の代わりによく世話をした。

自分のことに話を戻そう。
いつからそうしたのか、うろ覚えではあるが、幼稚園の年長くらいから私は自分の性器を弄ぶようになった。
子供を出産し、性教育に関する情報を見るようになって驚いたのは、幼児がプライベートゾーンを触る行為はよくあることで、別におかしなことではないことだった。
だが、私の自慰行為に対する執着は異常だったと自覚している。
親や弟の目がないところでいつも、無意識に下着の中に手を入れていた。
母の車でスーパーへ行くときは、車の中で待つと言って、カセットから流れてくる八神純子の「みずいろの雨」を聴きながら、後部座席で行為にふけっていたりした。(歌謡曲って艶っぽいのが多いですよね)
そのうち、性的なことを考えると濡れて快感が増すことを知った。その時いつも思い描くのは、心から気持ち悪いと嫌悪していた父と母の交わる姿だった。

初めて男性に性器を触られたのは小学1年生のときだ。相手は隣の席の男子だった。1年生の2学期の席替えで、私は廊下側の一番うしろの席になった。当時、机は隣の席とぴったりくっついていた。何をきっかけに始まったのか分からないが、授業中、お腹からズボンに手を入れられ、下腹部を触られた。先生や他の同級生の死角になっているのと、私が何も言わないのをいいことに、その男子は隙を見つけては無言で手を入れてきた。その男子とは特別仲が良かったわけではないし、私のことが好きだったようにも思えなかった。嫌だとか怖いという気持ちがまったくなかったわけではない。でも、親や先生には相談しなかった。家庭訪問で「itsuhaさんはしっかり者で、みんなのお手本です」なんて褒められていたのに、先生に相談できるはずがなかった。私の話を聞こうともしない母やそもそも家にいない父に、相談しようなどとはまったく思わなかった。それに、私がこのことを公表したら、二度と触られなくなると思ったのだ。自分でするのとは違う背徳感があった。それから自慰行為のときは、両親の性行為ではなく、同級生にされた性被害を、濡れるための素材として扱うようになった。

こんな私だが、意外にも(?)処女を喪失したのは大学3年、21歳のときだ。当時付き合っていた彼氏と、酔った勢いで済ませた。終わってから貧血で倒れたことは覚えているが、最中のことはほとんど記憶にない。
それまでにも何人か恋人はいたが、最終段階までいくことがなかった。根底に「性行為は気持ち悪いもの」「行為と愛情は無関係」「女は男に従順するもの」が強く残っているからだった。性行為を受け入れたら、それまでの美しい恋愛感情がなくなり、カラダが目的になって恋人の愛情が薄れ、離れてほしくないから男の欲望に従うしかなくなるのが予想できた。
心だけでは飽き足らず、身体さえも欲しがる男に従順な女なんかになりたくなかったのだ。
実際、「お前ヤらせてくれないし」と浮気されてフラれたこともある。
「愛のあるセックス」なんて所詮幻想で、セックスをしたら心も身体も穢れるくらいに思っていた。
初体験は記憶がなくなるくらい酔っていたから、思考停止でできたのだ。
私も両親と同じになったんだと思った。一度穢れてしまえば、もう怖いものはなくなった。ただ、素面では一切できなかった。
そこから、私はアルコールとセックスに溺れていった。

続く。


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