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出産体験記~癒着胎盤と母乳信仰~

所属しているコミュニティで授乳に関する話があったので、今回はちょっと特殊な私の出産体験記を、昔の育児日記を読み返しながら書いた。
※医療系の話が苦手な方は読むのをお控えください

私は不妊治療で子どもを授かった。
夫が乏精子症・精子無力症だったので、不妊治療の最終手段となる顕微授精をした。
男性側に問題があっても、不妊治療は女性に大きく負担がかかる。会社に相談して仕事の合間にクリニックに通い、お腹に苦手な注射を打ちまくり(自分で注射ができなかったので毎日通った)、採卵は二度とやりたくない!というくらい疲弊した。
一番いいグレードの受精卵を移植し、無事妊娠。
次にグレードが良かった胚盤胞は第2子のために、凍結した。
採卵をもう一度やる覚悟も金銭的余裕もなかったので、子どもは多くても2人と決めた。凍結した方の胚盤胞は、次にグレードが良いとは言っても妊娠の確率は低い数値で、もしかしたら今回が最後の出産になるかもしれないと思っていた。(結局、離婚したので凍結胚は泣く泣く破棄)

結婚するまでは、腹の中に別の人間が入って大きくなっていくなんて、まるでエイリアン映画のようで、想像しただけでおぞましい、無理無理!と思っていた。
そんな私でも自ら妊娠を望んで、お腹に子を宿した。
気持ち悪さなんて皆無。性別が判明する前からお腹の子に適当なあだ名をつけて、まだ膨れてもいないお腹をさすって、話しかけまくっていた。すでに母親気分だった。
幾度も妊娠に失敗し、生理が来るたび経血とともに涙を流しまくってきたから、やっと願いが叶って幸せだった。(しかも、あの煩わしい生理がしばらく来ないなんて、最高にハッピーだ!)

それに加え、私は妊娠中のつわりが一切なかった。
妊娠中は身体も気分も安定していた。私の周りにつわりがなかったという人が一人もいなかったので、かえって不安になるくらいだった。(つわりは赤ちゃんが元気な証拠とかいうし)
妊婦健診で看護師さんに不安を話したら、「お母さん思いのいい子なんだよ~」と言われてすごく気が楽になったのを覚えている。お腹の中にいるときから母親想いだなんて、早く会いたいなぁ。でもこのままずっとお腹で暮らしてくれてもいいなぁなんて思っていた。
どんどん大きくなるお腹も愛おしかった。腰痛がしんどいとか、靴下がうまく履けないとか、やたら息切れするとか、不便なことは多々あったが、本当に最高な妊娠期間だった。

だが、そのツケは産後、一気に回ってきたのだ。

出産予定日の夜、陣痛があり入院するも子宮口がなかなか開かず、18時間陣痛が続いた。つわりがなかった分、ここで相殺する気か?!と恨めしく思ったが、ゴールまであとちょっと、なんとか耐えた。初めてにしてはいきみ方がうまかったらしく、子宮口が全開になってからはスムーズに出産。産まれてきた子どもの産声は力強くて、達成感と感動でいっぱいだった。めっちゃ頑張ったやん、きみ。めっちゃ頑張ったやん、私。立ち会っていた夫も涙を流していた。産まれたての赤ん坊が胸元に寄せられて、喜びもひとしお……と思ったのも束の間、ここからが本当の地獄だった。

産婦人科の先生(男)は野太い声で「臍帯が千切れた!」と言った。
「胎盤が出てこない。いまから腕を突っ込んで取り出すから我慢してくれ」と。え??腕を突っ込む?どこに?私の股に?えええええええ怖い怖い怖い。先生、ガタイいいし、結構腕太いじゃん。さすがにそんな巨根は入れたことない(と日記に書いてある笑)。まだ子宮口が開いてるからといって、それはいくらなんでも無茶だ!やめてくれーーー!と思っている間に、過去イチの激痛が私を襲った。

通常、赤ちゃんが産まれたあと、臍帯(臍の緒)もろとも胎盤が出される仕組みになっているらしい。しかし、私の場合、臍の緒が途中で切れてしまったことで、胎盤を引っ張り出せず、子宮内に残ってしまった。かなり稀なケースの癒着胎盤だ。
後から調べると、子宮口が開いているうちに、医師自ら子宮に手を入れ、中から胎盤を掻き出すことを用手剥離というらしい。
麻酔なしの用手剥離は陣痛や出産どころではない強烈な痛みだった。比較的痛みに強い私だが、すぐにギブ。頑張れ!と言われると無理をしてもかなり頑張るタイプだけど、まったく頑張れる気がしなかった。

私があまりにも、痛い痛い無理無理無理!死ぬ死ぬ!と叫ぶので、麻酔を打つことになった。全身麻酔をしたのは生まれて初めてだった。
映画「サマーウォーズ」の仮想空間のような場所に意識だけ飛ばされるような感覚があった。それが麻酔の幻覚ではなく、死後の世界だと思いこんだ私は、あーあ、とうとう死ぬんだな、と悟った。自分の子を一目見ただけで、もう終わりなのか。せっかく付けた名前をまだ呼んでない。あの子を置いてもう逝かなければならない。こんな結末なら、妊娠中にひどいつわりが来てくれた方がよかった。ハッピーな妊娠ライフなんていらなかったのに!と自分の運命を呪った。

麻酔が切れて次第に意識が戻り、子宮の激痛を感じた。残念なことに機械での掻爬手術はうまくいかなかった。私の子宮は収縮せず、胎盤がほとんど残ったまま。出血がひどかったので、これ以上の手術は継続できなかったらしい。
子宮に負担をかけすぎてはいけないからと、ひとまず子宮が収縮して胎盤が自然に出てくるのを待つことになった。常に腹痛に見舞われた。本当は、産後すぐに骨盤ベルトをしたかったが、腹痛と出血があまりにもひどくできなかった。出産後7年が経とうとしている今でも、生理や排卵の時期になると子宮の激痛がたまにある。私の骨盤は緩んだままで、産後の尿漏れにもすごく悩まされている。

骨盤も問題だったが、なによりも、母乳の問題が深刻だった。

胎盤が残っていると、脳がまだ赤ちゃんがお腹にいると錯覚して、母乳が出ない。それでも助産師さんは、「吸われれば出るようになる」と信じて赤ちゃんにおっぱいを飲ませようとした。出ない乳を無理やり吸わされて、赤ちゃんが泣きまくる。明らかに嫌がっているのに、助産師さんは自分の信念を曲げず、私と子どもはぐったり。乳首短くてごめんね、おっぱいが出ないママでごめんね、と申し訳なさでいっぱいだった。

出産から3日後、再び掻爬手術をした。胎盤は取り切れず、私は術後の影響で高熱が出て、ひどく体調が悪かった。手術で胎盤が取れたら、きっとたくさん母乳が出ると信じて、マッサージをしたり、吸わせる練習に励んだ。母乳が出ないことなんて、想像もしていなかった。母親になったら、誰でもそれなりに母乳は出るものだと信じていたのだ。

胎盤が残っているせいで、尋常じゃない腹痛が波のように襲ってくる。下腹部めがけてボーリングのボールを思いっきり投げられ、腹が潰されるんじゃないかというような圧迫された痛みで、立っても座っても寝てもいられなかった。ことあるごとにうずくまる私を見かねた夫が、産婦人科に電話をかけ、痛み止めをもらってきてくれたがそれほど効かなかった。便器にずっと座っていたいくらい出血がひどかった。毎日、貧血でフラフラしていて、熱っぽくて、体力がどんどんなくなっていった。

家にいて私に協力したくても夫には仕事がある。両親は遠方だからというよりも毒親だから頼りたくない。義両親は高齢かつ放任主義。赤ちゃんの面倒がろくに見れず、母乳も出ない。これが、最後の育児になるかもしれないのに。出だしからつまづいてしまった気がして、すごく悔しかった。

3回目の手術で、残っていた胎盤の半分が出された。術後の出血がひどく、42度を超える高熱を出し、強い悪寒で全身が硬直して痙攣した。「輸血」という言葉が聞こえた(結局、輸血はしなかった)。歯が割れるのではないかというくらい、震えでガチガチいった。舌を噛み切ったらまずいということで、口の中にタオルを突っ込まれた。心電図モニターから変な音が鳴っていて、自分の身体が自分でまったく制御できず、あぁもうこれは本当に死ぬかもしれないな、と思った。

毎回死を覚悟しながら、全4回の手術で胎盤がすべて取り払われたが、私の期待を裏切り、母乳が出てくることはなかった。
一足先に出産した友達が母乳信仰派で、育児書に書かれてあるようなスピリチュアル的なアドバイスをくれた。母乳が出過ぎてつらいという別の友人は、私を羨ましいと言う。実母も「飲むのがヘタな赤ちゃんなんじゃない?」「手術したのに母乳が全然出ないなんてことないでしょう」と得意の嫌味をかます。夫には、ミルクでいいじゃんと簡単に言われ、母乳を与えられないつらさはなかなか理解してもらえない。助産師や保健師も、赤ちゃんの体重が増えないことへの懸念と、母乳育児について耳障りのいい言葉を並べる。すごく孤独だった。本やネット記事を調べたり、母乳外来を探したり、母乳育児に囚われて気が狂いそうになっていた。

完全に打ちのめされたのは、どれくらい母乳を飲んでいるか病院で調べてもらったとき、何度調べても0ccと言われたときだった。少しは飲んでいるだろうと思っていたので、0という数字に耳を疑った。
かなり絶望して、無駄な努力はやめようと母乳を諦めた。ミルク一本にしよう。いちいち、何度も夜に起きて、作って冷まして、洗って……面倒だし、お金もかかるけど仕方がない。だって、どうしたって出ないんだもの。

母乳で育てたいという私の意地に付き合わされて、出てこない乳を毎回加えさせられる子どもが不憫だ。子どもも私と同じように、いつかは母乳が出ると信じていたのかもしれない。孤独だと思っていたけれど、この子だけはわかってくれて、一緒に戦ってくれているんだと気づいた。二人で戦死するわけにはいかない。


育児日記に、読んだ本の一節が記されていた。

あんなにも奪い取るだけのはずの生き物なのに、時間も場所も乳も。
なのに、なんで赤ん坊というのは、ひたすらに与えるだけの存在なのだろう。

「サーカスナイト」よしもとばなな


6年経った今だってそうだ。子どもはずっと私に与え続けてくれている。
自分が毒親化してきたとき、母乳をあげられなかったせいで、愛情が持てないのかも……とよぎったこともあった。完全にオキシトシンの呪いだ。母乳信仰に毒されている。

母乳がなんだ。ミルクがなんだ。子どもが死ななきゃいいんだ。本来の目的を見失っていた。もう、生きてくれてたらいいんだ。

形もよくないし、魅力があるほど大きいわけでもないし、不感症だし(おい)、母乳が出ないなら何のための乳だよ。こんな悩みの種(というか実?)は切り取って、搾乳機や母乳パッドと一緒にゴミ箱に捨ててやりたい気分だった。

男もおっぱいが出たらいいのにね。
母乳をやめる宣言をしたとき、夫に言った。
そしたら少しは平等になるかもしれないね、と。
2人の子どもなのに、女が背負うものが多すぎる。長期間お腹の中で育てて、死ぬ気で産んで、ボロボロの身体で乳をやり、自由を犠牲にし続ける。男は身体も心もいつも自分だけのもの。誰にも奪われない。ずるい。
でも、そんなの歪んだ被害者意識だ。最初からわかっていたことだ。それが不満なら、結婚や子どものいる人生を選択しなければよかっただけだ。

長年、男に生まれたかったと思ってきた私が、妊娠・出産という特権を使ったとき、はじめて女に生まれてきてよかったと思った。でも、結局は人生の節目節目で女という性に縛られ続けている。

母親になるとやたらと人にアドバイスしたがる女性が多い。マウントじゃなくて、よかれと思ってやっているのだろうけど、初産の人にとってはそれがときに足枷になる。
人それぞれ、乳それぞれ。
母乳だろうがミルクだろうが混合だろうが、大丈夫。子どもは順調に育つし、何の問題もない。そう過去の私に伝えたい。周りの意見に影響されすぎないで、自分と子どもにとって一番いい選択をすればいいのだ。


でもなー、やっぱり母乳あげてみたかったなあ・・・・・・










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