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レポート | 2024年4月1週目のいとち | 国際学部生からみた地域医療

はじめまして。大学を休学し、今年の4月からいわきに来た髙橋果歩です。ローカルアクティビストの小松理虔さんの元でインターンをしながら、いとちプロジェクトにも関わることになりました。

4月からいわきにやってきました! 福島に訪れるのは2回目です

いとちプロジェクトは、医療と地域の関係性をつくろうというプロジェクトですが、私はこれまで、「地域医療」と接点をもたない生活をしてきました。それもそのはず、大学は国際学部に進学していますし、小学校から今まで、学校を休んだことはほとんどありません(いつも皆勤賞!)。

また、広島市で生まれ、小学校から9年間をさいたま市で過ごしていたため、暮らしの拠点はいつも人口50万人以上の政令指定都市にありました。私にとって、「地域」はあまりピンとこない言葉です。

家族や親戚に医療従事者はおらず、都市で過ごしたために、地域密着型の医療を経験したわけでもない。そんなただの21歳、国際学部生の私が、いとちワークを通じて何を感じたのか。2回にわたる体験レポートの最後には、いとちワークを通じて、「医療」そして「地元」の定義が、自分の中ではどう変わったのか、綴っていこうと思います。


「医療」について、考えたこともない

私がはじめていとちプロジェクトに関わったのは、4月9日の「いとちワーク」でした。第1回目は、講師となる地域住民の方が2名、医学生、かしま病院の医療事務スタッフ、私の合計5名が参加しました。

かしまホームで行われた、いとちワーク

そもそも「いとちワーク」とは、毎週火曜日の14時から、2時間かけて行われる地域医療を学ぶ研修プログラムです。かしま病院では、病院実習のプログラムを「地域」にまで広げており、講師も医師ではなく、地域の方々が務めます。地域住民が講師をするスタイルは、私の大学にはない取り組みだったため、少し驚きました。

活動は、高齢者向けのグループホームとして実際に使われていた「かしまホーム」で行われます。現在は、地域交流や研修学習施設として活用されており、実習にきた医学生が短期・長期問わず滞在する宿泊施設でもあります。(私も4月からここに住んでいます!)

概要はこのあたりにして、さっそく私が参加した「いとちワーク」の体験を振り返っていこうと思います。今回のワーク冒頭では、以下の2つの問いについて、参加者全員で考え、共有する時間がありました。

・私にとって医療とは?
・私にとって地元とは?

1分間のシンキングタイムの後、自分の考えを1分間で述べて、グループ内でそれぞれの考えを共有していきます。正直、自分の言葉としてまとめるには、1分間のシンキングタイムはとても短かったです。これまで、「医療」や「地元」を漠然と捉えすぎていたため、言語化するのが難しく、「今まで自分は何を考えて生活してきたんだろう」と途方にくれてしまいました。

誰かにとっての地元は、安心できる場所

しかし、与えられた1分で自分の考えをまとめなくてはいけません。まず、「私にとっての医療とは」の問いを考えました。医療と聞いて、パッと思いついたのは、「最終手段」という言葉です。病院は、自己治癒力でも、薬局の薬でも、どうにもならなかった時に、しぶしぶ足を運ぶ場所。できれば関わりたくないし、自分にとって身近ではないほうが幸せだとすら思っていました。

次に考えたのは、「私にとっての地元とは」。ここでは、「素を出せる場所」という言葉が頭に浮かびました。私の家庭は転勤族のため、本籍地や実家、学生時代を過ごした場所が、全て異なっていました。特定の場所を地元だと胸張って言えませんが、自分を知ってくれる人がいて、いつ戻っても笑顔で挨拶できる関係性がある。そんな場所を、地元と呼んでもいいと思っています。


「死」へのこだわりをポップに語れる世界

お互いの考えを共有した後、次のワークでは、参加者全員で「アドバンス・ケア・プランニング(人生会議)」、略して「APC」を行いました。

アドバンス・ケア・プランニングとは、症状が悪化する前に今後の治療・療養についてを患者・家族と医療従事者が話し合うプロセスのことを指します。最期までその人らしく生きることができるように、常日頃からこまめに情報を共有することが重要です。終末期に入ると、約70%の患者は自分で意思決定をするのが難しくなるため、事前に本人の意見を聞いておこうという考えのもと生まれました。

地元広島県が発行している「ACP」の資料。
(出典:ACPの手引き,広島県地域保健対策協議会)

とはいえ、身近な人と「死」について話し合うのは、とても難しいことです。頭では向き合わねばと分かってはいますが、マイナスなイメージが先行するからでしょうか。明確に言葉にするのを避けて、考えることを後回しにする風潮があるような気がします。実際、私もその1人でした。

しかし、今回のいとちワークでは、「どせばいい?カード」というカードゲームのおかげで、楽しみながらアドバンス・ケア・プランニングを疑似体験できました。

「どせばいいカード」は、青森県にある社会福祉法人が開発したコミュニケーションツールです。全部で50枚あるカードには、さまざまな医療ニーズや価値観がかかれています。

ゲームでは、手持ちのカード5枚と山場のカードを見比べて交換しながら、最期に自分が大切にしたい価値観カードを手元に残していきます。山場のカードが全部なくなったら、手持ちの5枚から特に大事にしたいカードを3枚選んでゲームは終了です。

どちらにしよう、どちらも捨てがたい

「たべだばえふり、こぎてじゃ!(最期までオシャレをしたい!)」「点滴だの、そったもの、せばまいね!(無益な機器を繋がないでほしい!)」のどちらを、自分は最期の時まで大切にしたいのだろうか。

ただ「死について話し合って!」と突き放されるのではなく、カードに書かれた価値観をもとに考えていけるため、これまで思いつきもしなかった自分のこだわりに気付かされました。

ワークに参加した医学生が、自分の中に秘めていたこだわりを発表中

上の写真も、楽しくカードゲームをしているように見えますが、これも自分の心の底に秘めている「〇〇したい」「〇〇してほしい」を、家族や医療関係者に伝える準備、つまりAPCをしている真最中ということです。

「死」というセンシティブな話題を、温かみのあるイラストと津軽弁が、やさしく和らげてくれるため、変に気負うことはありません。ネガティブな話題としてではなくゲーム感覚で行えるため、APCを行うツールとして「どせばいいカード」は、最適な手段といえる気がします。


「死」は、ネガティブな話題ではないのかも

私はこれまでの人生で、「死」と向き合う時間をとらないまま、ずるずると年を重ねてきました。同世代や家族と深い話をするときも、「これからどう生きるか」という未来の話はしますが、「どのように死を迎えたいか」という話には至りませんでした。

きっと、「死」に対する漠然とした恐怖と、「人生100年時代のまだ1/5しか生きてない私なら大丈夫」という、勝手な決めつけが自分の中にあったのかもしれません。

「死」から距離をおいてきた私ですが、実は数年前に、身近な人を亡くす経験をしました。自分の世界に「死」を取り込む決心をしようと思っても、別れは突然訪れるため、遺された側の準備を待ってはくれません…。

そこではじめて、自分は「死」を話すことはおろか、考えることからも逃げていたのだと気づかされました。結局、大切な人が何を大切にしたいのかが分からないまま、最期を見送ることになりましたが、想像以上に苦しい体験でした。

どせばいい?カードを通じて向き合った「最期」

もし「どせばいい?カード」をあったら、最期に大事にしたい価値観が知れて、後悔を感じることが少なかったのではないか。いとちワークを終えた今、率直にそう思います。

また、面と向かって死の話題を口にすると、自分よりも年上の方に「次はあなたの番です」と遠回しに言っているような気がして、抵抗がありましたが、「どせばいい?カード」を使えば、ゲーム感覚でできるため気軽に話すことができます。

今回の「いとちワーク」のように、はじめて話すメンバーとでも気軽にできたのならば、身内でもきっと大丈夫なはず。今度帰省するタイミングにでも、高橋家恒例のババ抜きをするノリで、提案してみようと思います。


「いとちワーク」をきっかけに、今まで考えたこともないことに向き合った私の脳みそは、数週間たった今でも色々な考えがぐるぐると巡り、考えをアップデート随時更新しようと頑張っています。いったん書き出してみようと思って書き始めた今回のnoteも、案の定、言葉が止まらなくなってしまっているので、今回はこのあたりで。

次回は第2週目のいとちワーク、さくらんぼ保育園での体験と、地域医療に対する考え方の変化について綴っていきます。次のいとちレポートもお楽しみに。


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