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「社長、うちの子いれたってくれませんか?」と言われたい社長の話|株式会社クリーンエナジー奈良

はじめまして。株式会社I・T・Oの伊藤佑一です。

当社は、祖父が営んでいた伊藤建材という小さな会社から始まりました。

私が代表取締役として正式に後を継いだのは今年の4月1日です。

私個人としても会社としても節目の年なので、会社が目指す方向性や事業内容について広く知っていただきたいという想いで、私のこれまでをnoteに書いてみることにしました。

文章はあまり慣れないですが、誰かの参考に少しでもなれば嬉しいです。

たった3人からはじまったI・T・Oの生い立ち

祖父が営んでいた伊藤建材という会社は、土を掘って売る会社でした。

祖父が会社を興したのは昭和56年ですが、当時はバブルで建設需要も大きかったので、真砂土という土を山から採掘して建設資材として売っていました。

山を掘っていくと、そこに平らな跡地ができます。

採掘する中で産業廃棄物処理に近い技術を持っていたので、その跡地に工場を建ててやっていたのが、今もI・T・Oグループがやっているリサイクル事業の始まりでした。

元々は山の中だった本社営業所の敷地

今ではI・T・Oグループも全体で80名ほどの規模になりましたが、私が小学生の当時はまだ3人くらいの小さな会社でした。

母が昼になると毎日父の弁当を会社に届けにいくので、よくついていっていて、会社の人とは皆馴染みがあるような感じでした。

中学生くらいになると、いつもお小遣いをもらうために手伝いにいっていたのを覚えています(笑)

毎日コンクリートで現場作業の「社長」時代

大学を卒業した私は、金属リサイクルを行うI・T・Oグループの1社(K-TECH)の代表として仕事に携わるようになりました。

代表といっても、最初の10年くらいはずっと現場仕事をしていました。

学生時代の自分です。とても現場仕事に向いているようには見えません(笑)

最初はコンクリートの上で選別業務というのをしていたんですが、暑くて毎日へとへと。

3年ほどすれば身体も慣れてきましたが、最初はもの凄くキツかった記憶があります。

ちなみに父は金属リサイクルのど素人なので何も教えてくれませんでした(笑)

学生時代は中華料理屋、パチンコ店などでアルバイト経験はあるものの、社会経験は一切なかったので、当然先輩社員から仕事を教わるのですが、名目上は会社の「社長」です。

社内ではまだ良かったのですが、社外はわけがわからない状態で話すので、当時関わりがあったお客さんには迷惑をかけていたと思います。ごめんなさい。

それでも、今となってはそれが良かったと思っています。

細かい指示がないので自分で考えるしかない。

グループ全体の社長になるころには会社のグランドデザインを考えるようになりましたが、自分で課題を見つけて解決していくという姿勢はこの頃に身についたと思います。

経営者として最初の大仕事、働き方改革

会社の経営者という立場・仕事ができてきたのは30歳を過ぎた頃でした。

当時は人員不足が課題で、「人が足りない、人が足りない」と毎日現場で飛びかっていました。

特に、私が担当していた子会社の方ではほぼ全ての社員が辞めていくような状況。

新しい人が入っても続かない、しばらくすると辞めてしまう。

このままだと会社の存続すら危ういという状況で、真剣に社内の労働環境に向き合うようになりました。

労働環境も賃金も、お世辞にも良いとは言えない環境でした。

折りしも働き方改革が政府で進められ、なんとか人が辞めない、働きたいと言ってもらえる会社にしたいという想いから、私が先頭を切って労働環境改革を進めました。

当時は週1日休みが業界的に当たり前でしたが、まず週休2日制を導入し、100時間近く残業して稼ぐのが当たり前の状態から、今では平均20時間程度まで減らしました。

事故が起こらないよう、他社が手作業でやってるようなことも機械を導入したり、重機だけでなく事務仕事用のパソコンも良いものに新調したり…色んなことをやりました。

大きなディスプレイと、新しいパソコンを使ってもらっています。

おかげで社内の働く人たちの年齢層も50~60歳だったのが、30~40歳代まで若返り、業界的によくあるパワハラもない環境だと言われるようになりました。

私が経営に関わるようになってから、かれこれ10年ほどの月日が経ちましたが、当時では考えられないくらい社内の環境は変わったと思います。

まだまだやるべきことはたくさんありますが、「業務効率化」と「労働環境改善」は、経営をバトンタッチした10年間で私が成し遂げられた最初の大仕事だったと思います。

業界では手作業が普通の工程にも、なるべく機械を導入するようにしたり。
(お金がかかる…けど、安全にはかえられない!)

ゴミ処理の会社から、持続可能な社会のインフラへ

父が産業廃棄物の事業を始めたのは20~30年前ですから、当時は不法投棄当たり前のような時代でした。かなり時代を先取りしていたと思います。

最近でもSDGsや脱炭素という話が聞かれるようになりましたが、実は2012年に「再生可能エネルギー電気の調達のための特別措置法」というのが施行されました。

2011年に東日本大震災があったので、原発に頼らないエネルギーを作ろうという趣旨で出来た法律です。

この頃、I・T・Oでは吉野工場という木材を紙の原料にする工場を持っていました。

ちょうど新規事業を探していたタイミングでもあったので、「この施設をより有効活用して発電所を立ち上げられないか」という話になったんです。

発電所の設立に必要なお金は40億円。

当時のI・T・Oの売上からは考えられない規模の投資だったので、社運を賭けた新規事業でした。

そんな経緯で2014年に設立したクリーンエナジー奈良は、当時では奈良県唯一の木質バイオマス専焼発電所です。

クリーンエナジー奈良の吉野発電所。現在は五條発電所も新しく建設中です。

木質バイオマス発電とは、未利用の木材や、木材の残りかすを燃料として使う再生可能エネルギー発電のひとつです。

木や植物は成長するときに二酸化炭素を吸収します。

発電所で燃やされると二酸化炭素が出ますが、成長するときに吸収した分とバランスが取れるので、石油や石炭などと比べて地球に優しいんです。

また、奈良県吉野は元々"吉野杉"をはじめとしたブランド木材の産地でした。

昭和の終わり頃には"吉野ダラー"と言われ、一昔前の山いきさん(木こりさん)の話を聞くと4トントラック一杯の木材を売りにいったら外車が買えたというほど。今では考えられない世界です。

その吉野杉も住宅様式が変わる中で求められなくなり、人の手が入らなくなった山々が荒廃していってしまっていました。

(山の中に木を切ったままにしておくと、大雨で流れて土砂ダムの原因になったりするため、できるだけ搬出した方が良いのです。)

私だけの決断ではないですが、発電所を設立する方向に舵を切れたのは、こういった日本の自然やエネルギーを支える会社を創りたいという思いがあったからです。

日本は資源がない国なので輸入に頼りっきりですが、特に石油・石炭・天然ガス系はものすごく高くなっているし、しかも円安で、エネルギー貧乏になってしまっているんです。

まだリサイクル事業が本業にはなりますが、今後はプラスチックを燃料に変えるとか、大人用の紙おむつを燃料に変えるとか、そういう取り組みもしていけたらと思っています。

社長としての私の仕事

私たちの仕事は大変な仕事です。

でも、誰かがしないといけない仕事です。

世の中にはスーツをパリッと着こなして営業やコンサルをする人たち、または自由な働き方をするITエンジニアなど色んな仕事がありますが、

うちの子たちは、暑い中、寒い中、朝から汗をかいて働いています。

私ができることは、I・T・Oで日本のインフラを支えてくれている彼らを、経済的な面で幸せにしていくことです。

まだまだ自社の体制が完璧だとは思っていませんが、将来、うちの定年社員から「社長、うちの子ども会社に入れたってくれませんか?」と言われるような会社にしたいと思っています。

(最近は社内結婚も出て、嬉しいかぎりです。)

せめて嫁さんがパートで子供二人を大学に入れれるくらいの収入を出せる会社にしたいと思っています。

<※写真が欲しい>

私の仕事は社員を幸せにすることです。

上場企業では株主のために経営しないといけませんが、当社はファミリー企業。ITOの社名もそのまま伊藤。

どこを向いて経営するかは経営者の自由です。

受け継いだこの会社が奈良県を、日本を支える会社で在り続けられるように、一番は社員を幸せにすること。

そのためにこれからも頑張っていきたいと思います。


いいところだけを書きましたが、大変な失敗や、うまくいかないことの方がよっぽど多いです。
そんな失敗の話が聞きたい方は、いつでも連絡ください(笑)

I・T・Oグループでは、たくさんの仲間を募集しています。

他業種の方・未経験の方も大歓迎です。

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オンラインでも、オフラインでも、ぜひカジュアルにお話しましょう!

今後もたまに更新しようと思うので、よろしくお願いします。

伊藤佑一

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