見出し画像

断捨離を哲学的に考えてみた

五年間の大阪での単身赴任がもうじき終わる私は、月末の引っ越しに向けてこの(2024年5月の)ゴールデン・ウィークは断捨離に集中することにしています。
単身赴任が終わると言うことは、一人暮らしを終えて家族のいる家庭に戻ると言うことになりますので、それによって要らなくなるものが結構あるのです。

一人暮らしを始める時は何かと物入りですし、スペースもあるので後から結構余計なものを買っていたりするものです。
一人暮らしのまま引っ越すときであっても、使ってないものとかを捨てるかどうかを迷うこともありますけれど、結局捨てずに次に持って行ってしまってたりしますよね?

しかし一人暮らし自体を畳むとなると、生活するための必要な食器や日用品はいらなくなりますし、戻ってゆくスペースは一つの世帯から一つの部屋になりますので、多くの場合スペースも大幅に縮小することになります。
そう言う意味では、格好の断捨離の機会に私は恵まれたのかもしれません。

とは言うものの、断捨離なんて言うのは簡単、実際にやるとなると迷いや躊躇も先に来てしまってなかなか捗らないものです。
そこで、一旦荷造りの手を止めて、自分なりの「断捨離の哲学」みたいなものを考えてみることにしました。

今、使うか?

今現在自分が使っているものを捨てるかどうか、という判断がまず最初にあるのではないかなと思います。
今がシーズンで気に入ってる服は捨てないと思いますが、道具のようなものだと、今使っていても使い続けるのが良いかどうかというところを考えることになると思います。

今使っているものでも、それほど使い続ける必要がないと思うものであれば、生活習慣を小さくしたり、新たなことができるようにするために捨ててしまった方が良いのかもしれません。
言い方を変えると、今使っているものでも、使い続ける必要が本当にあるのかどうかを考えてみるというところでしょう。

例えば、私の場合ですとゴミ箱がそれにあたりました。
部屋の中にゴミ箱があるから、気軽にものを捨てることができるわけなのですけれど、そもそもなぜ捨てるものが出てくるのかを考えてみると意外と無くても大丈夫かもしれないことに気づきます。
実際、私の部屋にはゴミ箱が二つあるのですが、片方は分別ゴミ用のゴミ箱なので都度捨てることも出てこないようにすることもできるかなとは思います。

新たな環境で生活習慣を含めて変えてゆこうと思うのであれば、今使っているものでも捨ててしまって心機一転を図ることもできるかもしれませんよね。

いずれ使うか?

今使っていないものでも、いずれは使うかもしれないと思うとなかなか捨てられないものです。

代表的なものがではないでしょうか。
衣替えの時に今シーズンは着なかったなと気付いても、次のシーズンでは着るかもしれないとかがあるかもしれませんし、暖冬だから着なかった厚手のセーターは冬が寒くなったら着るかもしれないので、取っておこうとかなると思います。
服の場合は、捨ててしまって後からやっぱり必要となった時に買い直すと高く尽きますし。

でも、2−3年もきていない様な服は明らかに流行遅れであったり、着る時期がすごく限られている(春物、秋物とか)ので着る機会が今後も少なかったりするので、身軽にする上では思い切って捨ててしまった方が良いのかもしれません。
まぁ、着る機会が少なくても絶対にとっておいた方が良い服などどいうのは礼服ぐらいかなと思います。

あと、「勿体無い」から捨てられないというのもあるかもしれませんね。
服であれば「これ、まだ着られるのに、、」となる。
古着屋さんに出すと言う手もありますけれど、それも惜しかったりするのが不思議ですね。

服で無くても私の身の回りで捨てられずに残ってしまっているものに紙袋(手のついた紙袋)があります。
そう、好きなショップの紙袋、それもなかなか買わない高級店だったりすると、なんだかよくわからないですけれど紙袋とってしまっています。勿体なくて。

誰かにプレゼント渡すときにその袋に入れて渡そうとか考えていたりします。
紙袋ってちょっとしたお遣い物に良いですし、自分のカバンから出して裸で相手も渡すのもどうかなというのもありますので…
…こんなのは言い訳ですね…

このように、「いずれ使うかも、、」はかなり当てにならないでしょう。
そう思いながらもう何年も使わずに自分の周りにあるもの、結構いっぱいあったりします。それに気付いたならば捨てる時なのかもしれません。

気に入ってるか?

好きなもの(愛用の品)、思い入れや思い出があるものは、それを今使っていなくても捨てられないものです。
これは断捨離をする時の天敵ですね。
物置の中で埃をかぶっていたにも関わらず出てきた時に手に取った瞬間に思い出が溢れ出てきてしばしそれに浸ってしまう。
荷造りの手は止まり、「うーん、捨てられないぃっ」ってなります。

私の場合だと、以下のガジェットがそれにあたります。

アップルの先駆的な情報端末Newtonです。

まだiPadもiPhoneもなかった1996年に出た先駆的な情報端末がNewtonでした。手書きで文字や図形を認識し、パーソナル・オーガナイザーとして必要十分な機能を持っていたこの端末に私は魅了され、英文マニュアルと格闘しながらなんとか使いこなそうと頑張っていました。
…そんな思い出がこの箱を手に取ると蘇ります。

サポートはもちろんとっくに切れていますし、電源も入るかどうかすらわかりません。冷静に考えるとゴミなのですけれどどうしても捨てられません。
こいつはまだしばらくは手元に置いておくことになりそうです。

思い出の品という意味では、プレゼントやギフトとして誰かから贈られたものというのも捨てるのを躊躇しますね。
卒業アルバムや賞状、記念の楯、あるいは送別会などでもらった色紙のように、特定の人たちとの思い出が詰まっているもの…

会社からもらったもの(賞状とか)は転職で会社を変わったり、仕事をしなくなったら捨ててしまえる人もいるかもしれませんけれど、特定の人たちとの思い出にまつわる品は捨てるのは抵抗がある人が多いのではないでしょうか。

私の場合はこんなものがあります。

ラグビーのタックルバックのミニチュアです。

同期生に勧められて社会人になってすぐに始めたラグビー。
会社のクラブだけでは足りず、クラブチームにまで入って週末は練習に試合に明け暮れていました。ラグビーを通じてとっても大切なことをたくさん学んだと思っていますし、そのことは以下のnoteにも書かせていただきました。

写真は、私が会社のラグビー部を離れることになった時に、会社のラグビー部の仲間とクラブチームの仲間が寄せ書きの代わりにくれたミニチュアのタックルバックです。
油性のマジックでメッセージが書かれていたのですが、30年以上経っているので文字が滲んでしまっていて、誰がどんなことを書いてくれていたのかを判別することはできません。
それでも、これをみるたびにラグビーをやってて苦しかったことや楽しかったことを昨日のように思い出すことができます。
…これも、まだ捨てられない、ですね。

こういった思い出のある代物は、思い出を味わい尽くすための時間が必要なのかもしれません。言い方を変えるならば、名残りを味わう時間でもあるかも。
その時間は、いわば儀式をする様なものなのかもしれません。丁寧にやっておかないとあとになって浸りたい時にその触媒となるものがないだけとっても寂しい思いをすることになります。

丁寧に、儀式的に思い出をモノにではなく、自分の記憶の中に刻みつける…
そのための時間が必要なものって人として生きていれば、それなりにあるのではないでしょうか…

死んだあとに遺すものか?

これは究極の選択になるかもしれないです。
あの世には何も持っていけないので、本来は何も残す必要などないのかもしれません。こう考えてしまうと、今生きているために必要なものはその場で手に入れてゆけば良いのだから、体一つ何も持たないで移動すれば良い、というミニマリスト的な考え方に突き詰めると辿り着きそうです。

それでも、それは自分が一人で生きているだけだと考えた場合に過ぎず、誰か他の人が生きている世界、自分のいなくなった世界に自分が残すものがあるとしたら何だろうか、という問いがここで浮かんでくる余地があると思うのです。

今の世の中は、情報が電子化できるので、写真や文章はクラウドで家族や友達に(場合によっては永遠に)遺すことができてしまいます。
そうではなく物理的なモノとして自分が死んだ後に遺すものってどの様なものが良いのでしょうか?

もちろんですが、それは簡単に買ってこれる様なものではないでしょう。
おそらく、希少性があったり、同じものがこの世に二つとないモノになってくるのではないかと思います。

一つには、この前項で触れてきた「思い出にまつわるもの」があるでしょう。
そのものを通じて自分のことを思い出してもらうためのもの
それは子供が小さい頃に一緒に遊んだおもちゃかもしれません。あるいは一緒に読んだ本かもしれません。少なくても自分にとって大切なものであり、それを大切にしていたことを含め、それに触れた人たちが自分を思い出し、自分との思い出を味わう時間を作るためのもの。

なんか、しんみりしますね。
今考えようとしてもスッと浮かんでくるものがありません。
でも、いざ自分がこの世を離れるとなった時には「あ、あれ!」って思うものが出てくるのかもしれません。

そして、もう一つ、自分の死んだ後に遺すものがあるとしたら、それは自分だけのオリジナル、アートと呼べるものではないでしょうか。
私の考えるアートについては、以下の別noteで以前書かせていただきました。

匠、芸、極致という三つのアートのスタイルについて触れさせていただいていましたけれど、自分が死んだ後に遺すものとはこれらのアートの結実であり結晶のようなものなのかもしれないと思います。


先日、キース・ヘリング展を観てきました。

ニューヨークの地下鉄のホワイトボードに書かれた落書きでしかなかった彼の絵は、その分かりやすいアイコンと明確なメッセージ性で見る者の印象に強く残るものでした。
そして、彼の死後30年以上を経ても、そのアイコンとメッセージは廃れるどころか現代の世相の中でより強いメッセージとして伝わってくるものがあります。

声によるメッセージやコピーが簡単にできて実態のない電子情報では、薄まってしまってやがては人の心から消えてしまうものかもしれません。
一方で、アートの中に込められた想いやメッセージは、長い時間をかけた後でも人の心を揺さぶることができるのだなと彼の絵を観ていて思いました。

断捨離で何をどのようにして捨てるのか、どこまで自分自身を軽くするのかは、その人自身が決めて良いことだと思いますし、そこに正解はないと思います。

その一方で、断捨離の果てに何を遺すのかについては、それを受け取る側に伝える、伝わる想いのようなものとして自分の中に何があるのか、何が最後まで残るのかをこそ考えてみる必要があるのかもしれないな、と思います。

さて…引越しの荷造りに戻らないと…

ここまで荷造りが進むのはまだ先… これはイメージです。

最後まで読んでくださってありがとうございました ( ´ ▽ ` )/ コメント欄への感想、リクエスト、シェアによるサポートは大歓迎です。デザインの相談を希望される場合も遠慮なくお知らせくださいね!