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『過剰な接遇』について考えた

ひねくれた人間の戯言だと思って読んでいただきたいのだけれど、僕は過剰な接遇というものが苦手だ。


たとえばよく利用する近所のスーパーの話。
このスーパーでは、レジ担当の店員さんが最初に必ずお辞儀をして、「いらっしゃいませ」と言う決まりになっているらしい。どの店員さんであってもお辞儀の角度は常に一定で、両手はおへその上あたりに置かれ、客の目を見て「いらっしゃいませ」を言ってくれる。実に徹底された接遇サービスだと思う。

ところがこのスーパーのレジにはよく行列ができる。しかしどれだけ列が伸びていたとしても、店員さんは必ず丁寧にお辞儀をし、「いらっしゃいませ」と言うのを欠かさないのだ。

仕事帰りの夕刻、僕は長いレジの列に並びながら、お辞儀をする店員さんをぼんやり見つめる。ほとんどの店員さんはお辞儀と挨拶をするやいなや、実に手早く商品をチェッカーに通し、合計金額を叩き出していく。
しかし、なんだろうこのモヤモヤ感は。決して店員さん個人にモヤモヤしているのではない。おそらく僕は「必ずお辞儀をしなければならない」というオペレーションを作り、全ての店員にそれを強いているであろう、このスーパーの体制にモヤモヤしているのだ。

やっとのことで僕のレジの順番が回ってくる。お辞儀をしてからの「いらっしゃいませ」のあと、「ポイントカードはお持ちでしょうか」「持っていません」「失礼いたしました」という毎回お決まりの会話もある。(ちなみにこのスーパーはポイントカードを利用すると現金決済しか出来ないという決まりで、クレジットカードで家計を管理している我が家はあえてポイントカードを作っていない。)
そして会計を済ませた後、またしてもあの角度のお辞儀と共に全身全霊の「ありがとうございました」をもらった。

この丁寧な接遇のせいで、客一人あたりどのくらいの時間をロスするのだろうと考えてしまう。どの店員さんも手早く商品を捌いてくれるから、さほど大した時間ではないのかもしれない。
しかし、僕はこの接遇を受けて嫌な気がしたこともなければ、気分が良くなったこともない。正直なところ先述の「体制に対するモヤモヤ」を感じてしまう分だけマイナスの感情が勝ってしまう。最近浸透してきたセルフレジがこのスーパーに導入されれば、迷わず僕はセルフレジを使うだろう。

ところで先日、学生時代にこのスーパーでアルバイトをしていた人と話をする機会があった。その人が言うには、「あのお辞儀、やる意味無いよなあと思いながらずっとやってました。お辞儀の角度とか頭を下げる時間とか、細かく教えられて、ちゃんと出来ないと怒られたんですよね〜」とのことだった。
その人は過剰な接遇を強いる体制に疑問を抱きながらアルバイトに勤しんでいたようだった。レジの店員さんが客である私と同じことを思っていたと知り、不思議とほっとした気持ちになった。


これもまた近所の、とあるドラッグストアでも過剰な接遇を受けることがある。これはレジを担当する40代くらいの一人の女性店員に限った話なのだが、この人はとにかく声が大きい。非常に歯切れがよく快活な、宝塚の女優ばりの発声で、過剰なレジ接遇をしてくださるのだ。

「いらっしゃいませ!!お待たせいたしました!!ポイントカードはあ、お持ちでしょうか!?!?ポイント、端数分も、お値引きできますがいかがですかあ!?」
「お支払い方法は、どうなさいますか!?クレジットカードですね!!かしこまりました!!少々…(やや溜める)お待ちくださいませ!!」



うるさい。マジでうるさい。これに関してはモヤモヤを通り越してイライラを感じる。全てが過剰だ。
この人は発声の良さばかりではなく、最初と最後のお辞儀、レジから身を乗り出すように客に向かってポイントカードの有無云々を問いかけるなど、まさに女優ばりのオーバーアクションが目に余る。

ドラッグストアという店の性質をふまえて考えたい。ドラッグストアはちょっとした日用品や食料品を扱う店でもあるが、基本的には薬を扱う店である。我々は自分の身体のどこかしらに問題があるから薬を買うわけで、薬を買うときに体調が悪いこともままあるだろう。
現に先日、僕はいかんともしがたい頭痛に見舞われ、手持ちの頭痛薬が切れてしまったのでそのドラッグストアに行った。もちろん体調は絶不調で、一刻も早く頭痛薬を手に入れたかった。しかしその時レジで例の女性店員に当たってしまい、かの過剰接遇を受けたものだから、頭痛がさらに悪化した気がした。
それにドラッグストアは、堂々とレジに出しづらい商品も扱っている。できるだけ淡々と支払いを済ませ、その場を離れたいことも多いのではないか。

この人のタチが悪いのは、先述のスーパーのような「強いられた接遇」ではなく、この接遇を自発的に、良かれと思ってやっていますという雰囲気が溢れているところだ。他のレジの店員の対応と比較するとこの人の過剰さは一目瞭然なのだが、もはや「はあ、最近の若い子は接客がなってないわね。私が見本を見せてあげる」なんて心の中でドヤ顔をしながらレジを打っているのではなかろうか。


このような事例を挙げていくとキリがないのだが、毎朝通勤で通る交差点に、制服を着て交通整理のようなことをやっている女性がいる。最初は警察官なのかと思ったが、違うようだ。

そこは片田舎の交差点なので、通勤時間帯とはいえ交通量は多くはない。数人の通行人が信号待ちをしていると、彼女は「おはようございます!」と元気に挨拶をし、両手を前に突き出して「少々お待ちください!」と通行人を制止する。信号が青に変わると、今度は手を大きく横断歩道に向けて、「どうぞお通りください!行ってらっしゃいませ!」と大きな声で誘導する。

こういうとき僕はまたしても斜に構えてしまう。ふだんは人から親切を受けると気持ちがいいし、親切にしてくれる人には機会があれば恩返ししたいとも思うのだが。

正直に言ってこの人の仕事の存在意義がわからなかった。なんなら僕の通勤路の道中にはいくつも交差点があるし、もっと交通量が多い場所もある。なぜわざわざ一人だけ、その交差点に配置しているのかがわからなかったのだ。

こうなると、その女性の大きな身振り手振りや言葉がまたしても過剰な接遇に思えてしまい、モヤモヤを感じてしまうのだった。「お待ちくださいって言われなくても待つよ……。」とか思ってしまうし、テンションの低い朝に大きな声で挨拶をされると逆に気持ちがしぼんでしまう。


しかし、ある日の朝のこと。僕は家を出る時間が普段よりもだいぶ遅れてしまった。
急いで通勤路を走っていると、普段は出くわさない集団登校の小学生たちと鉢合わせた。小学生たちは例の交差点で、何十人もの列を作って信号待ちをしていた。
その時である。あの交通整理をしていた制服の女性の、いつもの大きな声が響いた。


「おはようございます!赤信号なのでお待ちください!」

子どもたちにわかりやすいように、両手でストップをかける女性。

子どもたちもおはようございます、と挨拶を返した。

信号が青に変わる。

「どうぞ!!行ってらっしゃい!!」


女性は横断歩道に歩み出して、子どもたちを誘導した。信号が変わる前に全員が渡れるよう、声を出して子どもたちを送り出していく。

女性は通学路に配置された交通指導員だったのだ。たしかに、さほど交通量が多くないとはいえ、小学生の行列を事故から守る人は必要に違いない。
僕は毎朝通勤していたが、その道が集団登校の通学路になっていたとは知らなかった。

僕は小学生と一緒に横断歩道を渡りながら、斜に構えていた自分のことが恥ずかしくなった。



世の中に過剰な接遇があるのは間違いない。それに対してモヤモヤやイライラを感じてしまうのも仕方ないと思いたい。しかし、時に僕は、ものごとには「見えていない部分」があるということを思い知らされるのだった。

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