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来い、濃い焼き魚/エッセー


 わたしは今、魚のことを考えようとしている。焼き魚だ。たとえば、あじ。ほっけ。さんまに、さば!どれも味が全然違っていて、それぞれ特徴がある。わたしは今、焼き魚のことを考えようとしている。たくさんの種類を食べたりしないから、もっとたくさんの味はわからないのだけども。
 たとえば、ぶり。フライパンでステーキのように焼くとちょっとリッチな気分になる。しゃけは、食べ過ぎて少し飽きてしまっているが、その幅広さといったら!甘い味からからしょっぱいほどにからい味、あぶらの乗ったカマ、ハラスは細いが濃縮されていて においがある。
 数年前まで一番好きだったのは、ほっけ。「当たり」のほっけは、栄養たっぷりのあぶらがにじみ出て、きらきらと輝く。塩気もちょうどよくて、身がほどよくおおきくて、ふわふわしている(ふわふわしているものは大抵美味しい)。ご飯が進むおかずというよりかは、生っぽいふりかけのようにちょっとした塩の役割を果たしているよう。生ぬるい大根おろしに、少し醤油を垂らしていっしょに食べると、これ以上のしあわせな食べ方はないと感じる。
 そうそう、さばも。あのクセのある、におい!あの何とも言えない、いぶったようなにおいは、さばが「これからいくぞ!」と存在を主張しているよう(どうぞどうぞ来てください!)。さばは二枚下ろしにした骨の少ない方を、皮がパリッとするまで焼いて、おおきく食べるのがしあわせだ。口の中にほんのり皮の苦みと、美味しいとはまさにこれ!と言いたくなるような濃厚な旨味を感じながら、ぺろりと平らげるのだ。さばのにおいは食べた後も、空気か、鼻か、はたまた意識なのか、しばらく漂い続ける。「さば」と聞いたときに記憶に漂うあの独特なにおいは、人をうならせる嗅覚が求めるなにかをもっている。

 焼き魚を母はよく、焼いてくれた。体にいいんだよ、といって。ぱちぱちと焼く音、魚を焼くグリルをガラガラと引いて、焼き加減を確認していた。ああこんな風にかくと、まるで母が死んでしまって魚を通して思い出しているようだ。いつまでも生きていてほしいな、いつかこんなものを読み返して、ほっぺの塩気でも食らうのだろうか。
 わたしは今、魚のことを考えているけれど、焼き魚たちのもつあの塩気は忘れることができない(生ぬるい塩気も同じく)。焼き魚の塩味。適度なしょっぱさでご飯に箸をのばすわたし達を追いかけまわしたりする。薄味も濃い味も、ご飯で調節できる、あのしあわせよ!自然の味付けがベストだ、あまじょっぱいで有名なしゃけの味噌漬けはあまりにも箸が進み過ぎるから。

 じゅわじゅわと皮がジューシーに焼けて、あぶらがきらめいていたりする。身はふわふわだったり、しっとしりしていたり、ぷりぷりだったりする、焼き魚。 焼いたときの白い煙はきっと、視覚から脳に影響する文明的なものやその考えをぼんやりうすめて、古来からのしあわせを口から味わうための霧なのだ。昔から、生まれる前のずっと前から、このしあわせは続いていて、わたしもこれから、焼き魚のしあわせを丸ごと後世に繋げていきたいと思うくらいだ。


エッセー:来い、濃い焼き魚
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