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品川 力 氏宛書簡 その四十七

「ペリカン書房」御始めの由、貴兄の
仕事として最も相應しく思ひます。
レストラントでは、餘り僕には用がなかった
のですが、本屋なら、これから大いにありがたい
のです。最近いろんな本を大分買ひ込みまし
た。アオイ書房發行「銅板繪本」は二十五円
でしたが、これは百円位の値打はありますよ。
いづれ金をどっさり持って買ひに行くつもりです。


[消印]13.8.18 (昭和14年)
[宛先]本郷区本郷六丁目 ニ 三
    品川 力 君


[差出人] 八月十七日
      大森、馬込、東二ノ一、一五一
          菊池 与志夫


                       (日本近代文学館 蔵)



本 郷 雜 記
―吉野秀雄氏に―
  品 川 力

 現在の場所で本屋を初め
るつもりでゐたら家主であ
る銀行から來年の二月が滿
期で契約が切れるから(銀
行でこの場所を使用するた
め)立退いてほしいときた
ものです。
 幸に一二軒先に賣物があ
る話をきいてゐましたので
町内の有力者を通して交渉
してもらつたのですが、數
週間かゝりますので、どう
なることやらと氣が氣であ
りません。やうやく家屋明
渡しが濟んで、大工がいよ
いよ來てくれることになつ
たら先方から「釘」がどう
しても入手不可能だからそ
ちらで一つ心配してくれ―
――にすつかり番狂はせ、
文庫アルヒーフ主人公マイステルに相談に飛ぶ
やら、小石川宮下町の百軒
長屋に「古釘」を買ひに出
かけるやらいやはや飛んだ
騒ぎ。まさに一難去つてま
た一難きたる――です。
 しかしこれを經驗するこ
とによつて生きる喜びを痛
切に感じて、緊張味をいや
が上にも増すからです。
 それに帝大出の若い連中
の仲間になつてやつてゐる
雜誌「海風」第六號の初校
が出はじめました。下手な
詩の飜譯で義務が濟んだつ
もりでゐたらいつの間にか
通信事務から、會計まで僕
が受持たされてゐますから
「吉野マンスリイ氏」にひ
けをとらない、ペリカン一
人オーケストラです。これ
からは大いにアイゼンヘル
ツ(こんな獨逸語があるか
どうか知りませんが、勉强
してゐるとついでます)そ
こでこんど品川書店でなし
に「ペリカン書房」とする
ことに決めたことは、博學
の貴兄を前にして一寸氣が
引けますが、本郷は勉强家
ばかりの住むところと見え
てロンドンからペリカン・
ブックスなる名稱の叢書が
刊行されてゐることを知つ
てゐる學生が相當あります
のと、ペリカンは古く中世
より基督敎に於ては Rede-
mption Pietyの象徴とされ
てゐる――とかいたらかた
苦しい事になりますが、こ
れといふのも自ら胸をさい
てその血を以つて子を養ふ
と傳へられてゐるからだそ
うで、僕も多分にこの性情
を所有してゐるところから
云々と申すのではありませ
んが、ペリカンの名がこの
やうにポピラリティである
ことゝ小さな存在でも日本
にたつた一つしかない名前
の「ペリカン書房」は面白
からうといふことになつた
わけです。
 こんどの店には、客間を
つくります。貴兄や石黑敬
七氏のごとき巨人だつたら
三人でフウルハウスになり
ますが、普通マア五人はラ
クにはいれるやうに設計さ
れてゐます。
 先づこの室にはいつて眼
につくのはテイブル上にあ
るメニューですが、もうこ
れは料理の名前は一つもか
いてありません。フランス
語で CARTE DU JOUR と
あつてその下に英文で The
chief Pleasure in eating
does not consist in costly
Seasoning or exquisite F
lavour,but in Yourself.
と印刷されてゐる文章にも
用はありません。
 「この小さな室をどうか
皆さんの談話會などに利用
して下さい。番茶はいつで
も差上げます。たゞし御菓
子は御持參下さい」――な
る僕の下手な字を發見する
ことでせう。と、かいてく
るとかつて僕を昭和の畸人
傳中の代表的人物と折紙つ
けてくれた田村喜代太氏の
「あの變り者がまた始めた
ぞ」と云はんばつかりの顔
が見えるやうです。
金でも出來たら僕の思想も
變ることでせうが、當分の
間この原則を守らせて頂き
ます。貧乏人に餘りふたん
をさせないといふことがき
て下さる人々を氣楽にさせ
ると考へたからです。
しかしこの主義には、貴兄
から「俺ァ、無料たゞなんてこ
と厭だゾ」と一本やられそ
うですが、これにビクとも
する僕ぢやありません。室
の隅には貯金器(これは獨
逸語)で書いた方がよさそう
ですが知りません)が備へ
てありますから、どうか、
安心なさつて「ペリカン書
房」開店のせつには御出か
け下さい。

越後タイムス 昭和十四年七月廿三日 第一千四百三十號 四面より




本郷落第横丁ペリカン書房


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