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悟りを開けない方がおかしい

先日、ワクチンを熱心に打ってしまわれている方から、ご助言をいただきました。

「竹内は、陰謀論なんかを信じてるから、見る軸が曲がっちゃうんだ。永平寺にでも行って、座禅をしてくるといい。悟りの境地には辿り着かないかもしれないが、そういうのが大事だぞ」

ありがたいお話です。

その方なりに、心底、私を心配してくれてのご発言だと受け止めたので、これに対して激しく反論したりとか、そういうことはしません。

こんな投稿を目にしても、そんなのを持ち出して、わざわざ「熱心にワクチンを打っちゃってる方が、見る軸が曲がっているんじゃないですか?」なんて、野暮なことを言い出したりもしません

たたただ、ありがたいと思っています。実際、その助言を受けて、近々、永平寺には行ってみようかと思っています

しかし、「悟りの境地には辿り着かない」という部分が、妙に引っかかって仕方ありません。悟りの境地にはたどり着かないと決めつけてしまう点が、どうしても納得できなかったのです。

なので後日、こんな文章を含むメールを送りました

ところで、同じ日の昼食時「私の言っていることが宗教みたいだ」とおっしゃいていた通りで、宗教が説かんとしていることは、もう既に理解しているつもりです。そうでなければ、こんな記事は書きません。
https://note.com/isseicc/n/n7f04096346ed
それは妄想などではなく、科学宇宙の理を追究していくなかで既にあきらかになってきていることです。
アインシュタインが否定したがった量子力学超ひも理論多世界解釈論などの諸理論は、宇宙の理を解明しつつあります。そして、それを完成させる最後のピースが「宗教みたい」な部分です。
宇宙の真理を解明したり、悟りの境地を理解するためには、科学と宗教の両方を使いこなさなければなりません。
数千年の歴史を経て、ようやく人類は悟りの境地に達すると思います。これからの時代、悟りの境地を達しない人は、生き抜けないくらいの話です。
https://note.com/isseicc/n/nfab84b700d8d
神とは何か?」なかなかお時間がないので、詳しくお話することはできませんが、時間があればしてみたいものです。

悟りを開く・開かないで言えば、既に過去、悟りを開いた人がいたとされています。

(「滅」は滅度。人間の迷いを捨てて悟りの境地にはいること) 仏語。涅槃にはいること。特に、釈迦の死をいう。また、高僧などの死にも用いる。

コトバンク
「入滅」より引用

死んでしまったら、元も子もないじゃないかという話ではありますが、釈迦は悟りの境地に入ったとされています。死んでしまったとはいえ、そんな2000年以上も昔の人間にできて、今の人間にできないと決めつけるのは、ただの怠慢ではないかという気がするのです。

おおげさ???

けれども、長い歴史のなかに偉人とされる人がいて、その彼らが、私たちに残しているのは、その偉業だけではなく、私たちが乗り越えるべき課題も含まれます。

さておき、「歴史上の偉人」たちがやり残していったもの、それらの「宿題」をまとめて解決していくことが、今の私たちに求められているのではないでしょうか。
それは今回取り上げた「キリスト教」の元になってしまった、イエス・キリストについても、同じことが言えるのではないかと思います。彼が人類に残した功績は偉大かもしれません。しかし同時に、私たちに大きな宿題を残していると思うのです

「歴史は我々に宿題を残してる」より引用

イエス・キリストにしても同じです。彼も偉大かもしれませんが、その名を冠した宗教を作られてしまったらダメです。

彼らがやり残したことは、今を生きる私たちが解決していくべき課題でもあります。歴史の偉人たちは、何も偉業を成し遂げただけではありません。私たちに、解決すべき課題を残しているのです。私たちは、それを乗り越えていかなければなりません。

悟りの境地???

過去の人々がやり遂げていないのであれば、それを達成するのが、私たちの為すべきことです。しかも過去、(仮にその瞬間、死んでしまったとしても)そこまでいった人がいるというのであれば、それは心強い限りです。

私たちにできないわけがありません。あとは、生きたままそれを成し遂げるだけです。

仮に、悟りの境地なるものが、宇宙の理を知ることだとしましょう。そうだとすると、それは最先端の科学によって、だいぶ解明されてきていると言えます。

超ひも理論とは、自然界(宇宙)を形づくっているあらゆるものの「最小部品」を「ひも」だと考える理論。
光も、重力も、人間の体も、テレビも、ありとあらゆるものは無数のひもの集まりだという。
これまでは約20種類の存在が確認されている「素粒子」が最小部品と思われていた。
超ひも理論によると、どの素粒子を拡大しても、同じひもがあらわれるという。
ただし素粒子の種類によって、ひものゆれ方(振動のしかた)がことなっているとされる。

BOOK-JOCKEY.COM
「宇宙の「ひも理論」をわかりやすく」より引用

物質の最小構成要素である素粒子は「ひも」であり、その「ひも」は揺らいでいるとされています。つまり、私たちは、揺らいだ世界のなかに生きているということです。

そのことは、ゆらゆら波として存在している量子が、私たちが観測することによって粒になるという量子力学にも通じるものです。

結局、それら最先端の科学が意味するところは、私たちの宇宙が、私たち自身が観測することによって、固定化され、成立するということです。

端的に言ってしまえば、私たちの宇宙は、私たちがどうみるかにかかっているということです。


これの映像は、1940年代の日本だそうです。

例えば、この映像のなかの世界に飛び込んでいって、1940年代の日本で「私たちの宇宙は、私たちがどうみるかにかかっているのです」なんて言ったら、何かしらの宗教にのめり込んでいるか、ちょっと頭のおかしい人だと思われるでしょう。

1940年代の世界では、科学もそこまで辿り着いていないのですから、そう思われても仕方ありません

しかし、今は違います

捉えどころのない宗教の話ではなく、最先端の科学の話として、そんなことが語れる時代になっているのです。そのことを宗教的な表現をしたときに「悟りの境地」ということにもなりうるというだけです。

悟りの境地に辿り着かない????

冗談じゃありません

もう人類は、その一歩手前まで来ているし、何なら既に辿り着きつつある人が出始めていると思います。そして、そう思えるからこそ、これからの時代が楽しみなのです。

悟りの境地になんて、辿り着かない方がどうかしています


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