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現代詩の根本問題について

詩に「現代」と銘うつことは、詩人の責任問題でなければなりません。それほど複雑怪奇な発展をとげたものが、世に罷り通る「現代詩」なのです。ここでは現代詩の定義として、「現代詩とは現代人の内外の生活を知性と感性で高度に圧縮して、新しい世界の意味を伝える短文芸である」とでも申しておきましょう。

「詩」という時、一般の人々に浮かんでくるのは藤村であり、白秋であり、またカアルブッセの「山のあなたの空遠く」などでありましょう。これらの詩は、いわゆる気分的な抒情を美しい七五や五七の調子で流していった、つまり五七とか七五とかの枠の中で操作された、職人芸の高度なものではありますが、それだけに一気に感動を押し流した単調なものや、必要以上の詠嘆にみちたかりもののことばのつなぎ合わせともいえます。古いものへのあこがれの中で、意味をやや近代的に組み直してあるだけのものに過ぎない。現代詩はこうしたものと訣別します。大げさな身振りや生活をはるかに離れた言葉や気分本位な内容は、私たちの心の生活の糧にはならないからです。

またいたずらに言葉の調子だけに終始して、その内容の情景がぼんやりと霧につつまれたようなものも嫌い、それよりはもっと輪郭の鮮明なもの、映像のはっきりしたもの、各行、各連の変化による感動の統一といったものをめざします。

それから個人的なあまりにも個人的な、社会とは無縁な人の溜息まじりの独白めいたものも嫌い、個人というものの底で社会につながるために、自分を可愛がることを拒み、人も甘やかすことを拒む、いわゆる非情の精神に貫かれたものを大事とします。

しかしこれらは別に現代詩といわなくても近代詩にも通用するわけで、ここから現代詩の現代という言葉を見きわめていかねばなりますまい。

私たちは、戦争というもののおそろしさを今日ほどひどく見せつけられたことはありません。しかも戦後世の中は表向き明るさを増しながら、生活は愈々いよいよ暗い根を張りはじめています。こうした歴史的な社会の中で、少くとも現代詩を口にする場合、この社会情勢と無縁な詩を書くは、どの良心もが許さないことです。詩を作るよりも田を作れといわれた時代の詩人が書いていたものと、現代において私たちの書く詩は、まったく質を変えているのです。だいたい「詩人」という名は、本当に多数の人の魂をゆり起してくれた詩を書いた人にたいして、人々の側からつける言葉であって、私たちは詩人であるより前に、まず人間であり、社会人であり、誰彼と変わらない存在なのです。ただ自分の生き方を示す一つの方法として詩を書いているのであり、己の正しい生き方、社会の正しいあり方に鞭打たれて、より納得のいく正しい生き方を生むために詩精神という濾過機を持ち歩いているのです。

現代詩はいままでは一部の文学青年たちのなぐさみに似ていました。ところが最近になってやっと、一時的な青春感動で処理できるような甘っちょろいものではないことがわかってきたのです。人間と社会と歴史と。その組合せの中で詩人は何よりも意志的で行動的で冷静かつ鋭敏に新しい世界の創造に参与しなければならぬ倫理的な命題を持ち、その線に沿って作品活動をつづけなければならないのです。そうした場合、私はやはり何らかの意味で役に立つ詩を、と願います。そしてそれは少数よりも多数の人々に役立つ詩をとねがいます。

現代詩はこうしたことを考える時、まだまだいい詩となるためには六ヶむつかしすぎると思います。上手に六ヶしいのならわかりますが、下手に六ヶしいのが多すぎます。平明でしかも密度が深く、身近な物象で新しく組み立てられて、今日と明日の正しい生活の意味を伝える詩、しかもそれが繰り返し繰り返し読まれるような音楽性に支えられている作品。そうした現代詩こそ、万人が渇仰してやまぬものだと思います。私はそうした詩を「正統詩」と呼び、この製作を一生かかってやり遂げたいと考えています。

           長周新聞(1955年6月25日)

   



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