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私の3・11 あれから13年

そのとき 私はフルタイムでグループホームのケアマネをしていた。
そのとき 私は揺れる地面に意味が分からずにいた。
そのとき 私は不安で何度もメールしてくる娘のところに行きたかった。
そのとき 私は介護職には向いていないケアマネの資質が無いんだと悟った。

前年2010年の11月から働き出したその施設は、いろんな理解出来ないことが会って、まず私が採用されたのが先に居るケアマネを辞めさせたいからでした。知ってたら行かなかったんだけどね。
もう、そう言う運命だったんだからしょうが無い。

3月末?背中が痛くて動けなくなり、「これはこのままだとまた鬱になる!」と言う状態になって退職しました。
②度目の鬱様はちょっと長かった・・・
寝ても寝ても眠い、眠れる・・・

自分に特性があることを知らなかった。
自分の事を理解していなかった。
ソレまでの私は向上しようとしないとずるずる落ちていく!!と思っていて努力しない人は苦手でした。
間違った正義感の塊で、良いと悪いと分けていたし。

2010年12月だったか、母親が脳出血で倒れて
介護職の私がすべて取り仕切らなくちゃいけないんだと思い込んで
自分の時間をすり減らして病院に通ってました。

あの頃は、そうするしか無かったんだから仕方ないんだけどね。

さて、さて、元旦に被災しました。
13年前の揺れとは桁が違う。
でも、不思議と怖くなかった。
でも、1週間後にどっさり髪が抜けた。
今、生え際に産毛が生えておでこが少し狭くなってきて嬉しい。

12月に井戸のポンプを交換し、一日水を出せない日がありました。
「いつでも蛇口ひねれば水が出るってなんてありがたいんだ!!」
って毎日そのありがたさを忘れないようにしていました。
そうしたら、元旦に地震があり、うちはライフライン無事でしたが建物がかなりダメージを受けています。
毎日毎日水のありがたさ、火のありがたさ、電気のありがたさを身にしみて自然と感謝するようになりました。

自分の特性を理解しました。
若い頃は一度にいくつもの事をこなせていたけれど、鬱様からのんびりした生活に移行したので、いくつものやることが重なったらイライラするようになりました。
だからといって前もって一つ一つやれるようになったかというと、それは・・・無い(汗

人のエネルギーに左右されやすい事が分かりました。
表さんのお茶湯を行っています。

いやだな、と思う表現をする人からは、そっと離れるようにしています。

自分の取説、少し書けそうです。

能登では今も避難所で生活されている方達がいます。
そのことは忘れずに、早く元に戻れるよう祈りつつ
私は私で生きている事を楽しみたいと思います。

我が家も被災して修繕が必要なので、元気で笑顔で居る事を心がけたいです。

華々しく「こんな支援に行ってきました~。」って言うのを見ると胸が痛いのですが、無い袖は振れぬ、不慣れなものが行くと足手まといだし。

支援しているお店ヲ利用するとか

被災地のものを買うとか

でも、元気で居る事が一番大事だよね。
それだけで、明るくなるからね。

今日はこれでおしまい。







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