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坪内隆彦「渋沢栄一の『第二維新』 大御心を拝して」(『維新と興亜』第8号、令和3年8月)

「教育勅語ノ聖旨ヲ奉体シ、至誠以テ君国ニ報ユヘシ」


 渋沢栄一が九十一年の生涯を閉じたのは、昭和維新運動が台頭しつつあった昭和六(一九三一)年十一月のことである。一見すると彼の人生は昭和維新運動とは無関係に見えるが、彼は終生「明治維新の貫徹」「第二の維新」を願っていたのではあるまいか。彼は水戸学で培った國體思想、尊皇思想を堅持し、常に日本の本来あるべき姿を思い描いていたからだ。
 本誌第五号「渋沢栄一を支えた水戸学と楠公精神」で述べた通り、若き日の渋沢はペリー来航以降の激動の中で尊皇攘夷思想に目覚め、水戸学を崇拝し、藤田東湖の『常陸帯』や『回天詩史』を愛読した。渋沢の國體思想が終生変わらなかったことは、晩年に著した『論語講義』にも明確に示されている。渋沢が幾多の企業設立、育成に取り組んだのも、大御心を拝して、国家の生存と国民生活の安定に寄与するためだった。
 本稿では、渋沢が教育勅語や戊申詔書などの詔勅といかに向き合ったかを紹介したい。そこからは、大御心に応え奉り、国民精神の発揚を願う渋沢の姿が浮かび上がってくる。
 明治二十三(一八九〇)年十月三十日に教育勅語が下されて以降、渋沢の日記には「教育勅語ノ浄写ニ勉ム」といった言葉が頻繁に記されるようになる。水戸学の國體論を信奉していた渋沢は、教育勅語に特別な思いを抱いていたに違いない。勅語には東湖の『弘道館記述義』、会沢正志斎の『新論』などに代表される水戸学の國體思想が流れ込んでいるからだ。水戸学研究者の菊池謙二郎は、勅語の旨意と『弘道館記』の趣旨は全く同一だと言って差し支えないと書いている。
 明治天皇、皇后両陛下は明治二十三年十月二十六日から二十九日まで、水戸に行幸啓されている。勅語が発布されたのは、翌三十日だ。これは決して偶然ではないだろう。
 明治二十三年二月、勅語の起草に当たっていた元田永孚が「我が固有の大道」について意見を求めたのは、『大日本史』編纂に尽力した栗田寛であった。国語学者の山田孝雄は、この時栗田が元田に呈した『神聖宝訓広義』が、勅語起草の一つの参考になったのではないかと書いている。
 渋沢は、明治三十五(一九〇二)年に埼玉県出身学生を助けるため埼玉学生誘掖会を設立した。「誘掖」とは、導き助けるという意味である。彼は、寄宿舎を運営したり、奨学金を貸与したりすることによって、学生たちを助けようとしたのである。明治三十八年には七カ条の寄宿舎「要義」が定められたが、その最初に掲げられたのが、「教育勅語ノ聖旨ヲ奉体シ、至誠以テ君国ニ報ユヘシ」である。「要義」発表式では渋沢が「要義」を朗読した上で、次のように述べている。
 〈抑も教育勅語たる、日本臣民の常に肝銘して忘る可からざるものなり。謹んで其の聖旨のあるところを惟るに始めに於て国家の根本たる可き教育の淵源を示し、更に人倫五常の有るところを説き、国民の義務を明にせられたるものにして、時の古今、国の東西を問はず堂々不磨の大律なり。諸子は日常善く此の旨を体して修学の羅針盤とす可きなり〉
 明治四十一(一九〇八)年十月十四日には、戊申詔書が発せられた。日露戦争の結果、わが国は列強と並ぶ国際的地位を得たものの、国民の心に驕慢が芽生え、物質主義、拝金主義的な風潮が強まっていた。こうした中で、詔書は以下のように述べて、道義的退廃を戒めた。
 「どうか全国民が心を一つにして、真面目に業務に尽し、倹約して生計を豊かにし、信義を守り、義理人情の風俗を作り、華美なことを避けて質素にするやうに、お互ひが怠慢にならないやうに戒め、自ら弛まないやうにすべきだ」(杉本延博氏訳、『御歴代天皇の詔勅謹解』展転社)
 戊申詔書は「維新ノ皇猷ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ対揚セムコトヲ庶幾フ。爾臣民其レ克ク朕カ旨ヲ体セヨ」と結んでいる。このお言葉を拝した渋沢らの國體派は、「第二の維新」を目指して、国民精神の涵養に努めようと決意していたのではないか。渋沢が顧問を務めていた「奉仕会」(会長:佐藤鉄太郎)の趣旨書(大正十年十一月)は、「畏も 明治天皇は夙に、国家国民の前途を軫念し給ひ、或は軍人勅諭に於て、或は戊申詔書に於て、我が国民の嚮ふ所を諭示し給ふこと一再に止まらず、此れ皆吾人の拳々服膺して懈るべからざる千載不磨の御聖訓なり」と述べ、戊申詔書について「刻下の世局に処する国民の覚悟と努力とを誨へ給ふものゝ如し」と特筆していた。

天聴に達した渋沢の社会事業


 ところで渋沢は、維新後に急増した窮民を保護することを目的に創設された養育院に、明治七(一八七四)年から関わるようになり、明治十二(一八七九)年に院長に就いた。
 その二年後の明治十四年、養育院は存続の危機を迎える。東京府議を務めていた田口卯吉が府議会において、養育院廃止案を提案したのだ。「貧民を救うために多額の税金を使うことはやめるべきだ」というのが田口の言い分であった。渋沢はこれに強く反発、廃止案成立はいったん見送られた。ところが、明治十六年に再び廃止案が提出され、翌十七年に養育院廃止が決定されてしまったのである。そこで渋沢は、明治十八年二月十日、芳川顕正府知事宛てに「養育院廃止に対する建議書」を提出し、「府会の決定で、物言わぬ困窮者を顧みず、税金を浪費するからと言って無くしてしまうのは、養育院を創立した趣旨に背いています」(稲松孝思氏訳)と強く抗議した。
 渋沢は廃止論を批判し、府の管理する共有金、土地の売却、寄付金などの利息で資金は賄えると主張し、養育院存続を訴えた。この渋沢の建議は府議会を通過し、養育院は存続されたのだった。明治十八年七月以降、養育院は府庁の手を離れて独立、引き続き渋沢が院長として経営に当たることとなった。
 明治四十四(一九一一)年二月十一日に下った「施療済生ノ勅語」に示された大御心を拝して、渋沢は窮民救済の重要性を心に留め、自らの養育院などの社会事業への挺身を決意したに違いない。
 〈もし、国民の中に頼るべきところもなく、困窮して医薬品を手に入れることができず、天寿を全うできない者があるとすれば、それは私が最も心を痛めるところである。こうした人々に対し無償で医薬を提供することによって命を救う「済生」の活動を広く展開していきたい。その資金として皇室のお金を出すことにした。総理大臣はこの趣旨をよく理解して具体的な事業をおこし、国民が末永く頼れるところとしてもらいたい〉(大意、恩賜財団済生会HP)
 この「済生勅語」について、渋沢は『東京朝日新聞』の取材に答え、「此機会に於て聖旨に酬いんとするものは、施療の外に尚防貧と救貧の途を講ぜられん事を望む」と語っていた。
 聖旨に酬い、養育院の事業に奮闘する渋沢のことは、ついに天聴にも達した。大正六(一九一七)年一月十八日、渋沢は養育院長として皇后陛下への拝謁を許され、
天皇陛下への拝謁の栄にも浴することになったのである。その感動を渋沢は次のように書き残している。
 「此時陛下が私に仰せられまするには、お前は何年間此事業に尽し、又今年何歳であるかとのありがたき御下問を蒙りました。私は此事業には四十七年間関係致し、今年は七十八歳になりますと言上致しました所が陛下は更にお前は大層若い、折角此事業に力を致せとの、寔に此上もなき有り難きお言葉を賜はりました。此時の私の嬉れしさといふものは、生涯忘るゝことが出来ないのであります」
 渋沢は大正十一年十二月十六日と大正十二年六月十八日にも、養育院長として皇后陛下への拝謁を許されている。
 渋沢は大御心に応えようと弛まぬ努力を続けたが、社会の混乱は深まっていった。こうした中で、国民精神の衰えを憂う愛国団体の活動も活発になっていく。昭和四(一九二九)年九月に設立された「大日本国輝会」もその一つだ。逓信大臣などを歴任した前田利定を総裁として設立された同会は、創立趣意で「欧羅巴文明ノ移入ト共ニ、物質文明ノ光彩ハ深ク国民ノ眼ニ心ニ眩惑浸潤シ、我建国固有ノ国民精神並ニ国民生活上ニ変調ヲ来シ、加フルニ世界大戦ノ結果ハ奇矯過激ナル思想ノ伝播ヲ助長シ、為ニ我国民思想ノ不健全ヲ招来セリ」と危機感を募らせていた。渋沢は、頭山満翁とともに同会顧問に名を連ねていたのである。
 このように、渋沢には「日本資本主義の父」ではとらえ切れない様々な側面がある。むしろ、渋沢を「水戸学の國體思想に基づいて、国家の生存と国民生活の安定のために生きた人物」ととらえた方が、彼の全体像を理解することができるのではなかろうか。

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