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杉田庄一物語その3 第一部「小蒲生田」中保倉尋常小学校

昭和五年(1930)、杉田は六歳になり東頸城郡中保倉尋常小学校に通うことになる。小学校は磯部山を降りて二〜三キロメートル歩いた所にあり、山道ではあるが、歩くのが当たり前の時代としてはそれほど遠くはない。

元中保倉小学校の向かい側にある宝台寺、杉田は幼い頃ここで遊んだ


 しかし、冬になると風景は激変する。どこもかしこも雪で囲まれる中、杉田は藁靴をはいてスキーで通学をした。目を開けられないような吹雪の日もあったが杉田は一度も休むことなく学校に通った。
 学業成績は抜群、運動もよくできた。特に相撲やスキーの大回転は得意だった。短距離走など東頸城郡大会で活躍し、百メートル十一秒四の成績で県大会優勝をしている。保倉川の水を堰き止め家から持ち出した蚊帳でハヤやドジョウを捕まえたり、鮭の頭をいくつも切って針金を通しそれを餌にサワガニを捕ったりと元気いっぱいの餓鬼大将だった。下級生を引き連れて西瓜畑を荒らしてみんなで分けて食うような悪戯をしながらも、成績は常に一番だった。

 この年の一月二十一日から四月二十二日までの間、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれた。世界恐慌の影響によって各国の経済は疲弊しており、大規模な軍縮は各国とも必然となっていた。日本側の首席全権は若槻禮次郎前首相で、このとき山本五十六海軍少将が次席随員として参加している。山本は海軍の意を受けて強硬に軍縮案に抵抗したが比率七割を得られず、日本の補助艦全体の保有率は対英米比、六.九七五となった。
 以後、日本は米海軍の動静を常に注目し、対米戦を念頭に戦争計画を立てていくようになる。そしてなによりも、難産だったこの軍縮会議は海軍部内に大きな軋轢を生むことになる。大艦巨砲をもって英米と対峙しようとする「艦隊派」と国際的な条約を遵守しようとする「条約派」の対立である。
 山本五十六は、新潟県長岡の出身で、海軍兵学校三十二期。日本海海戦で重傷を負い、左手の人差し指と中指を欠損している。米国での駐在武官の経験やロンドン軍縮会議などを経て国際的視野をもっており、今後は航空機が戦争の主力になると見通していた。米国駐在時にはハーバード大学で学んだが、食事を削るまでして倹約し、自動車産業や石油施設など米国内の視察を熱心に行なっていた。
「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、アメリカを相手に無制限の建艦競争など始めて、日本の国力で到底やり抜けるものではない」

 帰国後の山本が常日頃話していた言葉だ。戦艦「大和」や「武蔵」の建造には断固反対をしていたが、その意見は通らず、皮肉にもその「大和」や「武蔵」に乗って指揮をとることになってしまう。

 昭和六年(1931)、杉田が七歳の秋、満州事変が勃発する。前年に起きた張作霖爆殺事件の後、新たな作戦主任参謀に就任した石原莞爾中佐が、関東軍高級参謀の板垣征四郎とともに謀った偽旗作戦であった。関東軍は政府の不拡大方針を無視し、戦線を拡大していく。米国は「武力による現状変更を認めない」という方針を世界に訴え、日本の行動を強く牽制するようになる。
 この年の夏、東北地方や北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。農家経済が疲弊し、青田売りが横行する。欠食児童や女子の身売りが深刻な社会問題となり、満州へ進出する軍事的野望と不況、不作で苦しむ国内事情がマッチしていくことになる。

 昭和七年(1932)一月二十八日、蒋介石率いる国民党と日本軍が上海で偶発的な衝突(上海事変)を起こす。日本から艦隊が派遣され、第一航空戦隊の航空母艦(空母)加賀と鳳翔の艦載機と国民党軍の戦闘機とによる空中戦も行われた。日本海軍航空隊の初の活躍であり、大々的に新聞報道でとりあげられ、国民はみな空中戦に心を躍らされた。とりわけ子どもたちの戦争ごっこに空中戦が入れられるようになる。
 三月一日、満州国の建国宣言がなされた。昭和恐慌に苦しんでいた日本の農村から農民開拓団が組織され、大量の農民の移住が行われることになっていく。杉田の住む東頸城郡でも満州への開拓団移住が積極的に呼びかけられ、新天地を求めて多くの若者が移住していった。次男である杉田も、いずれこの地を出ていく覚悟は幼い頃からしなければならなかった。日本海軍航空隊の活躍と満蒙開拓団の募集、小学生の杉田は自分の将来と重ねていた。

 同年五月十五日、ロンドン海軍軍縮条約を締結した内閣に不満を抱いた陸・海軍士官たちによる五・一五事件が起きる。軍事クーデターであるにもかかわらず、犯人たちの憂国の志をよしとする軍人が多くいた。海軍部内では犯人たちに同情的な艦隊派と批判的な条約派の対立が激しくなる。結局、重大事件を裁く軍事裁判であるにもかかわらず死刑は一人も出なかった。このあと、軍縮を覆しドイツと同盟を結ぼうと考える艦隊派が勢力を伸ばしていくことになる。

 昭和八年 (1933)一月、ドイツではヒトラー率いるナチス党が政権を獲得する。同年二月二十四日、国際連盟総会において松岡洋右外務大臣が脱退宣言書を朗読し、総会会場から退場する。これにより日本は国際的に孤立化していくが、逆に米国は英・豪と連携を深くし日本に対して圧力を増していく。翌年、日本では昭和六年につぐ大凶作となった。農村部の疲弊は激しく、東北地方を中心に女子の身売りが横行した。国民生活全体が逼迫し戦争遂行のための非常事態体制が敷かれた。

 昭和十一年(1936) 二月二十六日、東京ではめずらしい大雪の中、皇道派陸軍青年将校らが下士官九十四名、兵千三百五十八名を率いて蜂起し昭和天皇に昭和維新の実現を求めた。このとき、斎藤実宮内大臣、渡辺錠太郎教育総監、高橋是清大蔵大臣が殺害され、鈴木寛太郎侍従長が重傷、岡田啓介首相と重臣牧野伸顕が襲撃された(二・二六事件)。蜂起軍に対して天皇は、「もし陸軍大臣に鎮定できぬとあれば、朕みずからが平定する」と毅然とした態度をとったため、蜂起軍は投降した(一部自殺)。蜂起した将校らへの処分は厳しく十五名が死刑、二十二名が無期及び禁錮刑となった。二・二六事件のあと陸軍の中枢部から皇道派は一掃され、統制派が主流となって深く政治とかかわっていくようになる

 七月、杉田は十二歳になり進路を決めねばならない年齢になっていた。この地域から中学校へ進むのは次男である自分にはできない相談である。尋常小学校を卒業した後は、高等科に進むしかない。
 農業をするなら満州へ行って広大な土地を自分の手で開拓したい。それなら高等科を出て、安塚にある農学校に行くのがいい。だが、海軍少年航空兵とりわけ戦闘機搭乗員へのあこがれもある。海軍への志願は高等小学校卒でも応募できる。この当時の全国の男子の多くが同じ思いをもったように杉田も考えた。いずれにしろ勉学に励まねば、杉田は志をもって高等科に進む。

 十二月、横須賀鎮守府司令長官の米内光政が連合艦隊司令長官に、そして、航空本部長の山本五十六が海軍次官に任ぜられている。そこには、政治の中枢に海軍穏健派が入ることで軍国化へブレーキをかけようとする政治的な意志が動いていた。
 米内光政は、明治十三年(1880)に岩手県盛岡市に生まれた。明治三十一年(1898)に海軍兵学校二九期に入校し、百二十五人中六十八番で卒業している。海兵時代のハンモックナンバーがその後の人事を決める海軍では、出世の望めない成績であり、しかも納得するまで考え抜く性格で「グズマサ」というあだ名がつけられるほどだった。艦隊勤務をしている中で次第に頭角をあらわし、海軍大学校、ロシア駐在武官などを経て海軍中将にまでなった。本来であればこのまま予備役になるところを、同期の藤田尚徳海軍次官と同じく同期の高橋三吉軍令次長が「将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来る」として、自分たちが予備役になり米内を海軍に残した。

※ タイトルの紫電改のイラストは、イタリア在住のエンジニアであるFlavio Silverstri(フラビオ・シルベストリ)氏の描いた杉田庄一の乗機。Silverstri氏は英語や日本語の文献をGoogleで翻訳して杉田の研究をしている。

<参考>


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