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雑文(60)「瞬速王」

「これ、なに?」ぼくは、履き慣れたぼくのシューズの右隣に並んだ二足の真新しいシューズを見下ろし言った。
「瞬速王よ」おかあさんが、ぼくの背後越しにそう言った。「欲しいって言ってたでしょ?」
「言ってた」
「ぼろぼろだから替え時ってのもあるけどね」
「貧乏性だから仕方ないよ」ぼくは、瞬速王を見たまま背後にいるおかあさんに言う。「誰に似たとかは言わないけど」
 おかあさんが笑う。「それに」
「それに?」
「徒競走でビリだからビリーって、お友だちのおかあさんから聞いてね」遮ってビリーは言う。「友だちなんかじゃないよっ」
「瞬速王履いたら、徒競走で一等賞も夢じゃない」
「夢みたい」ビリーは変わらず瞬速王を見たまま言う。「ビリーって言われなくなるよ」
「なんて言われるかな?」
 ビリーは少し黙って言った。
「トップ。トップ・オブ・トップ」
「舌噛みそう」おかあさんが言い難そうに言ったから、もうすぐトップ、もうすぐトップ・オブ・トップは言う。
「ビリーって言われなかったら、ぼくはいいよ」

 瞬速王に右足左足を入れ、白い紐を結ぶ。結んだら腰を上げ、ぼくは軽く跳ねてみた。
「軽い。軽いよ」
「よかったわ」
「ちょっと走ってくるよ」ぼくはそう言ってドアノブを回してドアを押して開けた。
「遠くまで行かないでね」
「うん。すぐ帰ってくるから」
 ぼくは背後越しに、おかあさんに言った。「ありがとう。いつもありがとう。ぼくのためにいつもありがとうね」
「何よ。急に」
「じゃあ行ってくるね」
 ぼくは歩いた。そして走った。
 ぼくは消えた。おかあさんがぼくの名前を呼ぶが、ボリュームを回すみたいに小さくなるとおかあさんの声は消えた。
 おかあさんの前にぼくはもう二度と姿を現さなかった。
 おかあさんがずっとぼくの帰りを待って家の前にいるのを、老いてゆくおかあさんをぼくはパラパラ漫画みたい見ながらもぼくは走り続け、流す涙は一瞬で乾き、やがてぼくは。
 夕暮れの夜空に一際輝く一等星になった。

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