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雑文(10)「クローズ・ユア・アイズ」

 目覚めると私は、まず目に入ったのが、真っ白な天井だった。
 頭を左に傾けると、窓際の白いカーテンがさわさわ揺れていて、視線をさらに下げれば、黒い背広姿の男性が、おやっという表情を私に向け、そこに立っていた。
 ベッドに横たわる私は上体を起こそうと腹に力を加えたが、男は慌てて、というか慌てる素振りを見せずに冷静に、「重力に逆らわずに寝ていた方が身体に負担がない」と、穏やかな声を響かせ、中途半端に起きかけた私の動作を制止した。
 腹に込めた力を抜き、私はまたベッドに沈んだ。
 訊きたいことはあったが、言葉がうまく出てこない。言葉が出てこないのも、重力の影響だろうか。と、考えていたら、男の方から声をかけてきた。
「よく頑張ってきた。君はそう言われたいが為に、よく頑張ってきたと思うが、よく頑張ってきたと言われる人間は、よく頑張ってきた人間で、よく頑張ってきた人間なら、よく頑張ってきたって、よく頑張ってきたって言われたいと思わなくても、そう言われるんだよ。よく頑張ってきた人間は、よく頑張ってきた人間なんだ」
 なにが言いたいんですか、と言いたかったが、声にならずに吐息だけが歯と歯の隙間から抜けて、実存主義よろしくの男に伝わらないと思ったが、実存主義よろしくの男になぜか伝わった。
「伝えようとするから伝わるんだ」
 そうとだけ、実存主義よろしくの男は言った。私がなにか言おうとしたら、またしても男に先を越されて、私の声は声にならなかった。
「とにかく君はよく頑張ってきた。よく頑張ってきた人間だから、よく頑張ってきたって、君は言われるんだ。よく頑張ったよ、君は」
 乾いた瞳の表面が一瞬で潤み、頭を左に傾けて男を見ようしたら、あふれた涙が左頬を伝って、私の頭の重力分へこんだ白い枕カバーを被せた白い枕表面に、頬を伝って落ちた涙分だけ黒く染めて、ぐっしょり重く濡らした。
「だから身体に負担をかけず、横になっていればいい。よく頑張ってきたんだから、君はよく頑張ってきたんだから、これ以上よく頑張る必要はないだろ? 君はよく頑張ってきた人間なんだから」
 私はなにか言いたかったが、またしてもか男に先取りされ、言いたいことが言えない。
「おやすみ」男は短く言い、「君はゆっくり休める、君は休むべきだから、おやすみって言われるんだ。おやすみ。君はゆっくり休むべきなんだ」と、おやすみ、おやすみ、と、繰り返し繰り返し、休むべき私に、おやすみ、おやすみ、そう言った。
「待っ」声になったが、声は声にならない。誰にも届かない声は声だろうか。それは声ではなくて音、誰にも届かない雑音ではないか。男はもう、ノックをせずに部屋から出ていった。真っ白な部屋の窓辺の白いカーテンがさわさわそよ風に揺れる清潔さの心地好い空間に、白いベッドに横たわる私を残して、男は去ってしまった。
 私はたぶん死んだんだと、ぼんやり考えた。

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