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思春期を経て失ったもの、得たもの

 幼い頃は持っていたが思春期のシナプス刈り込みを経て失われたもの(そこでは哲学的な疑問を持ち、考える心)に思いを馳せ、喪失感を感じたという話をnoteにて読んだ。

※シナプス刈り込み:出生直後にいったん過剰にシナプス(神経結合)が形成された後、環境や経験に依存して必要なシナプスは強められて残り、不要なシナプスは除去される現象のこと。


 自分の場合について考えてみる。

 思い返すと小学校低学年の頃は、考えても解決しない、もしくは結論が得られても何の役に立つわけでもない疑問について、何時間も考えたり友達と話し合ったりするのが好きだった。

 たとえば、宇宙の外側はどうなっているのか、時間はどこまで続くのか。死とは。地球のものとは異なる形態の生命(例えば、非炭素ベースだったり、水を必要としなかったり)の存在可能性。また、ニヒリズムについて。

 しかし、「観測できないこと、考えても仕方がないことについては考えない」自然科学的思考が染み付いた今では、結論が出せないことについて考えることをあまり積極的にしなくなった。また、結論が出ても役に立たない事象について考えることの優先順位が下がってしまった。

 その結果、大きな疑問について考えることは減ってしまった。だが、かつては軽視していた身の回りのことや人間関係に対する興味が増し、より社交的になれた気がする。

 つまり、昔持っていて失ったものもあれば、それと引き換えに得た、今だからこそ持っているものもあると思うのだ。

 かつて持っていたものを失ったことに対する悲しい気持ちや情けない感情には正直共感した。つまらない人間になってしまったなと思う時もある。しかし、ある見方に限定すれば、喪失は成長の裏返しとも言えるのではないか。



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