形見とは、忘れたくないあの時を日々身につけて運べる影だ
先日参加した『インタビューのワークショップ』の期間中だけ、黒曜石と南部鉄のペンダントを身につけていた。花巻「林風舎」で、集合前にふと買ったものだ。買ったときには少ししか意識していなかったけれど、これはあの5日間の記憶をずっと鮮明に覚えておける装置、いわば、形見なのかなと思った。
形見という風習は、故人の所有物を近親者や友人がもらい受けることで、品物を通して故人を偲ぶこと(形見分け)。ワークショップで出会った人たちは皆ぴんぴんしているし、会おうと思えば好きなときに会いに行けるから、なぞらえるのは不謹慎かもしれない。
でも、あの日々と全く同じ時間は二度と訪れない。
宮澤賢治ゆかりの品を扱う林風舎は、1階がショップ、2階が喫茶室になっている。連休中なのに他のお客さんがいなくて、喫茶室の空間が本当に心地よかった。それで「絵画は持って帰れないけど、何か単価が高いものを……」と考えて選んだのが、流工房さんの手によるペンダントだった。黒曜石(Obsidian)は賢治の作品『台川』にちなんだもので、集中力・決断力を高めるとされる。
ひとつの品物に託される意味は一つではない。
もう十何年もペンダントをつけることがなくて、毎回装着に四苦八苦しながら、5日間着け外しを繰り返した。今はもう、すっかり指と首になじんだ。
このペンダントに触れると、クイーンズメドウ・カントリーハウスの土間で過ごした時間、その時に聞いた話、話したこと、場の空気、自身の奥の方にある言葉を探しに降りていく感じ、そういったものを鮮明に思い出す。
ワークショップ5日間全体を通して1冊のノートを作ったけれど、メモは個々に印刷した逐語録に散っていたりもする。鮮やかな黄色いドキュメントボックスに全てを収めているけど、これは「ここぞ」という時に引っ張り出すものになりそう。
装身具なら、毎日身につけることができる。毎日身につけているものは、身につけた数だけ、少しずつお気に入りになっていく。
言葉を五感で捉えるため、意味だけでなく「音律」に着目しよう、ということで例示された村上春樹を読んでいたら、そこにもちょうど「形見」が登場した。
場所の記憶、時間の記憶、人の記憶。それらを影送りのようにして、封じ込められる器を用意しておく。
ひとつの言葉やシーンだけで要約されない複雑な記憶は、どれだけ印象的な体験でも、薄れてしまいやすいと思う。なるべく複雑なまま、忘れずにいたい。
「けど」「なんか」「だから」「やっぱり」(笑)それから「ちょっと」「本当」「かもね」
逐語録ちくちく響く言葉には遠く暖炉の熱量がある
三日月の欠けたところが私かも 違う形の月は並んで
馬たちがピン!と両耳立てるよに、あなたに気づく感度でいたい
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