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《生あるかぎり、すべてが試練だ》と、新年の元日にそんな言葉を想い出す。

この記事は、書く習慣アプリの今日のテーマ「新年」に対して、ふと思ったこと感じたこととして私の書き殴った内容を、Note版として書き起したものです。


謹賀新年
あけましておめでとうございます。



お隣のそのまたお隣の石川県で大きな地震。
新年早々に……驚きました。慌てました。

やっぱり日本には……
絶対的な神様なんて居ないんだって思ってしまった。日本の正月を根底から覆すようなことを思わずには居られなかった。
本来、年末に神棚を正月飾りで御供えして、神様と共に在るべき正月に何故、平穏無事に過ごすことが出来ないのかと。

世界の何処の国でも、人というのは自分たちがワイワイ楽しみたいために偶像をでっち上げる不信心者が多いっていう内容のことを、二十代の頃に何かの特集記事で読んだことがある。そして、私はそんな不信心者にはなりたくないと強く自分自身に願ったものだった。そしてそうやって、これまでも神社が祀る神様を信じて生きてきた。
余計なことだけれども、父方の明治時代の御先祖が東京の深川八幡宮(現・富岡八幡神社)の神官をしていた関係もあって、結構うるさいくらいのしきたりも父方の家系にはあったせいだ。
そういうくだらないお家の〝血〟に縛られて、まるで呪いのように感じながら生きてきたわけだけれども。


そして、2024年1月1日。
私は人生で初めて不信心者と同じ心情を抱いてしまった。それこそ、私の心の中で大きな地震が起きたようなものだ。絆であるはずの〝血〟が呪いならば、いっそのこと壊れてしまえ……なんて思ったりもしたのだ。

だけど、そうなのだけれども。
そんなことを思いながらも、不快の想いは後悔とか懺悔の想いでもあったりして……そして、壊れてしまえと思いながら、壊れないでほしいと願ってしまう。

そんな意味の分からないことを思いながら、私は今この世の中で現実に起きている不運に対して、希望を見出そうとしているのだ。
どんな災害に見舞われようとも、諦めない限り人というのは復興できるということを、世界中の災害のあった国々のニュースや記事を視聴して読んで知っている。そしてまた人には信じることによって再生出来るチカラがあることも知っている。

……試練。
そんな言葉がよぎった。かの有名な哲学者ニーチェが自著『偶像の黄昏』の中で云っている言葉を思い出した。

〝Was mich nicht umbringt,macht mich staerker.〟と。

原文はドイツ語なのだけれど、これを英訳すると
「What does not kill me, makes me stronger.」となる。直訳するなら
「私を殺さないものは、私をいっそう強くする」なのだ。

しかし、一般に広く訳されているのは《生あるかぎり、すべてが試練だ》という言い回しである。私も学生の時に読んだその言葉のままで記憶に刻まれている。
私の過ごした母校の大学には「全人教育」という珍しい科目があって、全ての学生が履修することになっているわけだが、その授業で教授から教わったことだった……

時は長く遠く過ぎて、平和ボケしていたのだろうか、いつの間にかずっと大切なことを忘れていたような気がする。人は生きている限り試練の連続で、またその意思の選択の連続であるということを。


新年、1月1日という元旦に気づけて良かったと思う。
ニーチェのように絶対的なものを否定的に捉えるニヒリズムを主義とするものではないけれど、私もどちらかと言えば安易に絶対的なものを信じようとは思わない。
まずは自分が自分の中で経験してきたものから学び、その確かなものを信じなければ、本当の意味で地に足をつけて物事を考えることは出来ないのだと、改めて気づかされた。

こんなことを考える新年は、私の人生で初めてだったかもしれないなあ。


最後に。
能登半島地震で各地災害の真っ只中にいらっしゃる方々へ向けて。生きている限り、人生に負けなどありません。そして必ず希望、願いは生まれてきます。生活が突然ガラッと変わってしまい、めげてしまいそうになるかもしれません……それでも諦めずに踏ん張って頂きたいと切に望んでいます。

#note書き初め

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