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自分語りが良くないならエッセイってなんだ。


先日書いた記事とマガジンを
猫と本とコーヒーさんが記事の中で
紹介してくださいました♡


先日わたしの記事でも紹介させていただいた


麻央さんも、猫と本とコーヒーさんも、
「いつも記事を楽しみにしている」と
書いてくださっていて、
なんだかもう…胸がいっぱいに。

noteを毎日書き始めてもう少しで10ヶ月。
真面目なことも辛かったこともふざけたことも
本当になんてことないただの日常も、
たくさん沢山書いてきました。
誰のためになるとか、
誰かへのアドバイスになるとか、
そんなことはわたしにはおこがましいことで
ただ自分の書きたいことを書いてきました。

noteを始めてから
「自分語りをする記事はよくない」
というようなものを何度か目にしました。
そういうのはつまらない記事で
自分語りもただの日常も、
人が読みたいものではないのだというような。
(そういう内容の記事をいくつか目にしました)

ですが、正直な気持ちを書いてしまうと、
エッセイなんて自分語りでなければなんでしょう。
自分を語らず何を語るんだ?
と思っていました。笑
自分語りにも、語り方にも色々ありますから。


「なんてことない他人の日常」こそが
エッセイだとわたしは思っていたりします。
同じ時間同じこの世界を生きているから、
毎日色んなことがあるから、
楽しいことも辛いこともあるから、
赤の他人の日常そのものに、
感じるものが沢山あるのだと。

人の為になる記事、人の役に立てる記事、
誰かへのアドバイスになるような記事、
本当に素晴らしいと思います。
でも、全ての人がそういう記事ばかりを読みたいと
思っているわけではないのでは、とも思います。


しんどかった日、
クスッと笑える誰かの日常や
涙が溢れてしまいそうな日、
ほっと心が休まるような
何てことのない誰かの日常に、
助けられること励まされること
癒されることが沢山ありました。
そういう記事が読みたいことって、
わたしは沢山あります。

ひとりぼっちで街灯もない
真っ暗な道を歩いているときに、
誰か知らない人のお家だけど
あったかそうな色の電気が付いていて
優しい声が聞こえてくることに
ほっとするような感覚がわたしには大切です。
それでほっとする時もあれば
切なくなる時もありますが、
それでいいんです。

そんな、通りすがりの誰かや
通りすがりでいいからホッとする感覚を
求めている人が読んだ時に、
なんてことないけど、なんだか最悪の気分では
なくなったかもしれないな、って
そんなふうに思う程度で十分だから
ひとつでもそんな言葉を書けたらいいなって
思うことはあるんです。
誰のためとかそんなんじゃなくて、
そんなおこがましいこと言えないけれど
でも、誰かがほんの少し、ほんの少しだけ
ホッとしてくれたらいいな、とか。

文章を書く中での、わたしの小さな希望です。


noteを書き始めてから何度も書いていますが、
固く頑なものはいとも簡単に折れてしまいます。
ピンと張り詰めた糸は千切れてしまいます。
柔らかく、しなやかに、少したわむ余裕、
これが自分の心を守る上で大切なことだと
わたしは自分の心が折れて千切れしまって
ようやく気がついたんです。
自分がどれほど頑なで張り詰めていたのか、って。
そりゃ折れるし千切れるわ、って。


ため息は深呼吸に変えてみて。

偉そうなことなんて言えないけれど
言えることも、あるんだと思ってる。

吹けば飛ぶようなちっぽけな存在でも
誰かにとって取るに足らないようなことでも、
そこには大切なことが確かにあって。
そんな自分や日常や言葉たちのことを
大切にしたいと思うんだ。
自分語りバンザイだ。



それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。


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