見出し画像

孤独って、ひとりぼっちのことじゃない。


孤独を感じることってありますか。


私は今まで生きてきた中で
子供の頃からたくさんあったんですけど、
孤独=ひとりぼっち
じゃないんですよね。


孤独って、
ひとりでいるから感じるもの
というわけじゃなくて、
誰かといようと、大勢の中にいようと、
関係なく感じるものなんですよね。


自分の心が孤立している状態。


心の中に、
埋められない寂しさや苦しさがある状態。


実際、
天涯孤独なわけでも
友人がいないわけでも
話す人がいないわけでも
行くところがないわけでもない。


そんなこととは全く別の場所に存在している
「孤独」という感覚。


自分でもどうしたら良いのかわからない、
誰かにどうかしてもらえることでもない、
そんな孤独という感覚。


その感覚に向き合うことそのものが
大切なことなんだとわたしは思っていて。


孤独を感じている時って、
自分の心が何か叫ぼうとしている、
声にならない叫び声をあげている、
そんな感覚があったんですよね。


そういう時に、
自分の心が何を叫んでいるのか
なぜ孤独だと感じているのか
ということに耳を傾ける心を傾ける
全身全霊で向き合うということは
自分を蔑ろにしない為に大切なことだった
そう思っていて。

日常生きている中で、
自分のことって意外と蔑ろにしてるんですよね。
そして、自分と全身全霊で向き合うことから
逃げている人も多いのではないかと思う。


少しの寂しさや孤独感であれば
誰かと話して紛れる時も、
外へ出かけて紛れる時も、
眠ってしまえば良いという時も、
きっと沢山あるけれど、
それって一時的に紛らわせてるだけで。

だからまた、
ふとした瞬間にその孤独感が襲ってくる。


そして大きな孤独感に包まれた時は
"紛らわせる"なんていうことは出来なくなる。


1人で何時間も膝を抱えて泣くような
そんな時間を過ごしても、
少しも解消なんてされない。
そんな強い孤独感を見ないふりはできない。


けれど、強い孤独感って、
すぐになんとか出来ることでもなくて。

というか、ほとんどの場合いわゆる
「時間薬」だと思っている。


少なくとも私の場合はそうだった。

だからこそ、
その時間薬の「時間」そのものに
意味があるんだと思うようになった。


そういう時間を何度も過ごしていく中で
これは自分と向き合うための時間なのだと
思うようになった。


自分から逃げていた自分、
自分を蔑ろにしていた自分、
自分を大切にできていなかった自分、
自分の心の叫びに耳を閉じていた自分、
そういう自分と向き合う時間なのだ、と。

あの時間がなければ、
あの時自分と泣きながら向き合わなければ、
自分から逃げてしまっていたら、
今のわたしはいなかったのかもしれない。

別のわたしになっていたかもしれない。


少しの穏やかさや、
弱さを受け止めることで得た少しの強さ、
そういった今あるものも
持てていなかったかもしれない。


自分のために必要なこと
大切なことを知るための時間が
孤独の時間だったように思う。


そして孤独感というものは
生きてる限りなくならないものだろう
と思うようになり、孤独感そのものに対しての
受け止め方がそれまでと少し変わった。


以前別の記事で書いた、
"不安は生きてる限りなくならない"
ということと結局同じではないかと思う。

生きている限り、
不安や孤独感はゼロにはならない。
何歳でも誰といてもどこにいても
何をしていても。

けれどそこから得られるもの成長できるものが
必ずあるのだと思う。

だからこそそれらはなくならないし、
自分が変わらないといけない時、
1人の人間として成長できるかもしれない場面で
孤独というお面をつけて顔を出すのかもしれない。


そのお面の中はきっと、もう1人の自分だ。


自分からは逃げないで、と。

自分と死ぬまで一緒にいるのは、
自分だけだよ、と。

人間は孤独だけど、
お前はひとりぼっちじゃないよ、と。


ひとりじゃないんだよ、気づいて、と。
そう自分の心が叫んでいるのかもしれない。



よろしければこちらも合わせて。


それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。





この記事が参加している募集

noteの書き方

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートしていただけると嬉しいです。