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「処理」と「processing」


水無田気流(詩人・社会学者・國學院大學経済学部教授)

 本誌の読者諸氏には釈迦に説法のようで恐縮なのだが,情報処理,というお題をいただいて改めて考えた.そもそも,「情報」を「処理」するとは何か.何しろ「情報(information)」という語それ自体からしてきわめて多様な意味を内包している上,日本人にとっては西欧由来の「輸入語」である点もまた厄介である.

 英語でいうinformationの語源はラテン語のinfomareとされるが,この語には「形作る,ある物を表す,教える,養成する」などの意味がある.さらに類語としてはinformatioという名詞もあり,「模写,表現,形象」などの意味を持つ.ある概念を表現し,教え,共有する─.私見では,名前のなかった「何か」にかたちを与えて他者と共有する,その過程とともに「何か」の内実も包括的に示そうという意思によって貫かれたもの,それが「情報」のように思う.

 では「処理」と訳されるprocessingとは何だろう.processの語源はラテン語のprocedoであり,「前へ進む,進捗する,明らかとなる」のほか,「成功する,(ある時点に)到達する,成就する」といった意味も含む.思うに,この言葉の出自は,前向きで豊かだ.

 他方,日本語の「処理」は,少々陰鬱である.何しろ,「理(物事のことわり)」に則って「処」される,つまりしかるべき場所を与えられるのだから,規律正しいが見方によっては後ろ向きだ.「事後処理」や「事務処理」のような熟語が示すように,事態が手続きを無視して先に行ってしまったり,乱雑に散らかったりしたものを,後追いで片づけている印象である.同じクラスに「processing」さんと「処理」さんがいたら,前者はスクールカースト上位のスポーツマンで,後者は鹿爪らしい面立ちの風紀委員か何かのようである.だが,この原語と邦訳語は,元からこんなに対照的であったのだろうか.

 処理,といえば中原中也は1934年11月に「よもやまの話」という随筆を発表している.詩と小説についての持論の中で,おそらくは明治期以降の近代日本文芸思潮が,当初新体詩のように詩芸術から発したにもかかわらず,拙速に小説(中也は「散文芸術」とも呼ぶ)が中心となってきたことを問題視し,中也は次のように述べている.

 「人間印象があつて観念がないといふことはあるけれど,実際云って観念があつて印象がないということはあり得べからざることであるに鑑み,詩が小説よりも観念寄りといふよりはむしろ印象寄りの仕事であることからして,詩がもつとよく開拓せられてから小説が関心されに到ることが物の順序でもあつたであらう」.さらに,「詩が中途にして小説に席を譲るといふことは,常に余りに実利的心情を意味するものである」.なぜなら「印象といふものが,十分に見極められ処理された後でなければ,観念だの理知だのの活動は十分には出来ない」し,たとえできたとしてもそれは「芸術として」ではないのだ,と.

 その1カ月後,中也の第一詩集『山羊の歌』が上梓されるのだが,中也の鬼気迫るほどの詩集編纂姿勢に鑑みて,詩の推敲を重ねに重ねた直後の発言であったことは想像に難くない.そして不思議と,この場合中也の言う「処理」は,ラテン語の「進展」や「到達」,さらには「明確化」の含意を感じるのである.

 とすれば,少なくともこれくらいの時代の人たちにとって,「処理」とはものごとの進展を内包する創造的な言葉であったのかもしれない.単なる「後付けの事務作業」のような意味合いで捉えてしまうのは,現代人の早計であったか.反省,そしてありがとう,中也.

※太字は筆者による

(「情報処理」2023年1月号掲載)

■ 水無田気流
1970年生まれ.詩集に『音速平和』(中原中也賞),『Z境』(晩翠賞).評論に『「居場所」のない男,「時間」がない女』(ちくま文庫)『背表紙の社会学』(青土社),『多様な社会はなぜ難しいか 日本の「ダイバーシティ進化論」』(日本経済新聞出版社)等.