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TVアニメ『バトルアスリーテス大運動会 ReSTART!』とオリンピック批判の最前線:アスリートとの連帯は可能なのか

はじめに

最も肉体と共同体に近いものでありながら、同時に最もそれから遠いものにもなりうる文化感性のきわどい接合部がスポーツと、そしてファンの世界(ファンダム)である……その異様な盛り上がりは、誰しもすぐにそれと分かるいかにもという倒錯趣味などより、一見健康に見える分、よほど「世紀末的」な兆候なのだ。
(高山宏『ガラスのような幸福:即物近代史序説』五柳書院、1994年、173頁)

 新型コロナウイルス感染症の拡大が続くなかで強行された2021年の“TOKYO 2020”によって、オリンピック・パラリンピックの抱える無数の矛盾と欺瞞が人々の目に明らかとなっている。そんな折、オリンピック批判と受け取れるTVアニメが製作・放送されていたことは注目に値する。東京オリンピック開幕の直前、2021年4月期に放送されたTVアニメ『バトルアスリーテス大運動会 ReSTART!』(以下、『ReSTART!』)は、『バトルアスリーテス大運動会』という90年代コンテンツの23年越しの新作でありながら、往年のファンに秋波を送るにとどまらない創意工夫を見せてくれた。「アニメ!アニメ!」に掲載されたインタビュー記事(2021年4月10日公開)のなかで、本作の企画を担当した平田実は次のように語っている。

「AICライツさまがお持ちのコンテンツを現代向けにリブートしようという話が、以前からありました。いくつか候補作があった中で、『バトルアスリーテス大運動会』に決まったのは、2020年に世界的なスポーツの祭典が行われる予定だったからです。もともとは、2020年を目指した企画だったんですね。それが諸事情で1年遅れることになると、偶然、スポーツの祭典の方も一年先延ばしになったという流れです」

 本作が「世界的なスポーツの祭典」、すなわち今般の東京オリンピックをターゲットとした企画である以上、このスポーツ・メガイベントに対して(「自称中立」も含めて)何らかの政治的な評価を下すことは避けられないものとなる。可能性として、単純に東京オリンピックを言祝ぎ、祝賀ムードに便乗するという選択もありえたことだろうが、本作はその選択をせず、きわめて良識的な批判の姿勢を取ることを選んだ。この点は本作のオリジナリティであると言うことができる。
 誤解を避けるために言っておくと、もともと『バトルアスリーテス大運動会』自体がオリンピック批判を行うプラットフォームだったというわけではない。『バトルアスリーテス大運動会』は1997年から1998年にかけてゲーム、OVA、TVアニメ、小説など幅広いメディアで展開された企画であり、熱血・スポ根の要素を主軸とする二次元美少女コンテンツの一つにすぎなかった。その特徴は、漫画家の高遠るいが『ReSTART!』の公式スピンアウト『ペイル・ブルー・ドット』第1巻のあとがきで「メディアごとに設定もテーマもバラバラなのが大運動会の魅力」と述べているように、作風や舞台設定・キャラクター設定がメディアごとに異なる点に認められる。年に一度開催される「大運動会」で優勝を果たし、「宇宙撫子(コスモビューティー)」の栄冠に輝くべく切磋琢磨する少女たちにフォーカスして、彼女たちの友情・挫折・達成を描くという基本線は共通なれど、その味付けにはかなりの裁量が認められていた。
 例えば、OVA『バトルアスリーテス大運動会』(全6巻)はギャグ要素が少なめのハードボイルドな出来映えで、主人公・神崎あかり(CV: 夏樹リオ)を天才肌として描き、大運動会を連覇するラーリ(CV: 山口由里子)とあかりの一騎討ちに持ち込むことで、「女王」の交代劇を臨場感たっぷりに見せた。このようにOVA版が緊張と解放のコントラストを際立たせた一方で、TVアニメ『バトルアスリーテス大運動会』(1997年10月期・1998年1月期)はひょうきんな演出をふんだんに盛り込みつつ、気弱で鈍臭い主人公・神崎あかりが宇宙撫子へと駆け上がる成長譚に傾斜した作りとなっている。あかりは伝説の宇宙撫子・御堂巴の娘として天性の素質を備えていながら、闘争心が薄く、泣き虫でネガティブなキャラクターとして当初は描かれるが、友達の脱落やライバルとの切磋琢磨を通じて、徐々に選手としての自覚を深めていく(窮地で爆発的な力を発揮する展開が「熱血」に拍車をかけている)。また、TVアニメ版はあかりと一乃(CV: 久川綾)、あかりとクリス(CV: 川上とも子)をはじめとするシスターフッドの網の目が張り巡らされており、「カプ厨」も大満足の出来となっている。なお、最も顕著な差異としては、アンナ(CV: 矢島晶子)の性別がOVA版とTVアニメ版で反対になっているということも挙げられる。
 かかる特徴は必ずしも『バトルアスリーテス大運動会』の専売特許ではなく、各メディアで整合性がなくてもよいという往年のアニメ文化の貴重かつ希少な名残と言うべきなのかもしれない。いま思えば、ほぼ同時期に同じキャストで商業展開されたにもかかわらず、OVA版とTVアニメ版で世界観が異なることまで許容する姿勢は自明のものではなく、その意味で『バトルアスリーテス大運動会』の懐の深さは90年代半ばまでのアニメ文化が有していた独特のゆるさによるところが大きかったように思われる。いずれにせよ、23年越しに新解釈を芽吹かせた豊かな土壌は1997年の時点で用意されていたと言うべきだろう。『ReSTART!』の帯びるオリンピック批判的な色彩をオリジナリティと呼んだのは、このような懐の深さゆえのことなのだ。
 以上を踏まえ、本稿は『ReSTART!』に込められたオリンピック批判を、研究者やアクティビストが展開する反オリンピック論のなかに位置づけ、その意義と限界を明らかにするものである。

反オリンピック論のグラデーション:レンスキーとボイコフを読む

 国際的なオリンピック批判研究の旗手として、まずはヘレン・ジェファーソン・レンスキー(Helen Jefferson Lenskyj)ジュールズ・ボイコフ(Jules Boykoff)の名前を挙げておかなければならない。レンスキーはジェンダー・セクシュアリティ研究者の立場から、ボイコフは元オリンピアンという半インサイダーの政治学者の立場からオリンピックに反対する論陣を張っている。両者は必ずしも結論において一致を見ているわけではないものの、両者を対照して読むことでオリンピック批判の最前線をおおまかに把握できるため、以下では両者の力点の差異にも注意しながら、近代オリンピックの抱える問題点を整理することにしたい。
 第一に、レンスキーが指摘するように、IOCと各スポーツの協会・連盟は「スポーツ例外主義」(sports exceptionalism)にもとづいて、スポーツは各地域の政治問題とは切り離されている(要は「スポーツと政治は関係ない」)という白々しいお題目を並べている。それによって、マスメディア・広告代理店・スポンサー企業などを巻き込んだ「オリンピック産業」が形成され、グローバルに猛威をふるっている。

国際オリンピック委員会(IOC)とその統制下にあるスポーツ統治機関は、その指導者たちが人権擁護者や他の批評家との対話を拒否し続けていることで、しかるべくして抵抗運動のターゲットになっている。オリンピック産業の観点からは、「スポーツの特異性と自律性の基本原則を守る」ことが最優先事項である。言い換えれば、スポーツは自主規制を継続し、国内法および国際法の適用から免除され、このスポーツ・メガイベントに公的資金を投入する開催都市、州、国の政府を含む「政治」から隔離保護されている。
(ヘレン・ジェファーソン・レンスキー(井谷惠子/井谷聡子監訳)『オリンピックという名の虚構:政治・教育・ジェンダーの視点から』晃洋書房、2021年、3頁)

オリンピック産業は、スポーツ例外主義を取り込み、IOCが自称する「世界のスポーツの最高権威」という地位を築くことで、人体と心にダメージを与えるようなスポーツ実践を一世紀以上に渡って世界的に形作ってきた。
(同書4頁)

 オリンピックの歴史を通じて、IOCとその指導者たちは、スポーツ例外主義という概念を何かと擁護してきた。スポーツは特別だ、という表現は、オリンピック産業のイデオロギーを正確にとらえている。女性の地位から台湾の地位に至るさまざまな状況や論争において、IOCは、自身が政治を超越し、その外側にいると表明してきた。(同書10頁)

 第二に、スポーツ例外主義の標榜にもかかわらず、各地域の政治体はオリンピックを利用したスポーツウォッシング(sportswashing)に余念がない。レンスキーとボイコフが同様に指摘するとおり、各地域の政治体(およびオリンピック産業)は国際的なスポーツ大会への熱狂を通じて、各地域に根差す政治問題を糾弾する声を押し流し、馬耳東風の態度を決め込む傾向にある。

 スポーツ・メガイベントの大きなコントラストの一つは、こうしたイベントがアスリートから最高のものを引き出す一方で、開催国・開催都市からは一番悪いところを引き出しがちだということだ。オリンピックが、開催地がスポーツ・ウォッシングをする絶好の機会になっているのは、歴史が証明している。スポーツイベントを使って、染みのついた評判を洗濯し、慢性的な問題から国内の一般大衆の注意をそらすのだ。開催国が権威主義体制なら、五輪を開くことで、世界の関心が劣悪な人権状況に向かわないようにできる。……民主主義社会でスポーツ・ウォッシングは、ジェントリフィケーション〔注:貧困層やホームレスを街から追い立て、貧民街を高級住宅化すること〕や警察の過剰な取り締まりといった不公正なプロセスからわれわれの注意をそらす。
(ジュールズ・ボイコフ(井谷聡子/鵜飼哲/小笠原博毅監訳)『オリンピック 反対する側の論理:東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』作品社、2021年、22-23頁)

 グリーンウォッシングや企業の環境主義といった用語は、環境的に持続可能な開発原則への表面的で利益に基づくコンプライアンスを説明するために使用される。同様に、スポーツウォッシングは、権威主義体制が、悪化した世界的な評判をスポーツによって改善しようとする試みを指す。世界で最も有名なスポーツ・メガイベントであるオリンピックは、自国のグローバルなイメージ向上を目指す政治家やスポーツ管理者にとって理想的な方法だ。スポーツウォッシングのロジックによると、世界は最先端の会場で効率的に行われる有名なスポーツイベントに注目し、それによって国の内部問題から世界の注目をそらしている。スポーツウォッシングへの信頼は一般に十分な根拠があり、競技スポーツがもつ世界的な魅力は、社会正義を求める声を見えにくくしている。(レンスキー『オリンピックという名の虚構』、61頁)

 独裁国家のように、民主主義諸国もスポーツウォッシングを使って国内問題から注意をそらしている。独裁者はどんな問題でも市民の心をつかむ必要はないが、民主主義の選挙で選ばれた代表はより難しい評価にさらされており、スポーツウォッシングは有用な戦略となるのだ。(同書62-63頁)

 スポーツ例外主義がペテンにすぎず、オリンピックの開催が政治の次元と不可分であることを、レンスキーはソフトパワーの観点から説明する(この概念は近年も中国の孔子学院設置をめぐって多用されている)。また、ボイコフは「祝賀資本主義」(celebration capitalism)という言葉を用いて、ジェントリフィケーションや都市の軍事化といったオリンピックに起因する政治問題をグローバル資本主義批判に接続させている。

 ソフトパワーとは、軍事力や経済力ではなく、「魅力の力」によって国家の国際的地位を向上させることを目的とした戦略として定義されている。最大のスポーツ・メガイベントのひとつとして、オリンピックは実質的に国際的地位の向上を保証している(規模でいえば、1994年から2006年の間、四年ごとに開催されているゲイオリンピック/ゲイゲームズは、1996年から2004年の期間の夏季オリンピック大会よりも参加者が多かったが、おそらく政府にとって同じ「魅力の力」を提供していなかった)。
(同書48-49頁)

 新自由主義の原則は確かに一部の側面では重要だが、こうした原則だけではオリンピックの政治経済学をきちんと理解できない。むしろ、われわれの目に映るのは私が「祝賀資本主義」と呼ぶ、ナオミ・クラインの「惨事便乗型資本主義」のもっと晴れやかな顔をしたいとこのようなものだ。……どちらの形の資本主義も、政治的規範が適用されない例外的な状態で起こるが、クラインが書いた破滅的大変動とは異なり、オリンピックは社会が熱狂する瞬間に繰り広げられる。もちろん、オリンピックは誰にでも平等にお楽しみの機会をもたらすわけではない。富裕層やコネに恵まれた人々は五輪から利益を得る傾向があるが、一方で、すでに貧しい人々、周縁に置かれた人々の困窮は往々にして深まり、後戻りがきかないようにされている。
(ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理』、40頁)

 第三に、オリンピックはアスリートの人権も極度に抑圧しており、抗議活動を行うアスリートには容赦ない制裁を加えてやまない。レンスキーが指摘するように、アスリートは裏切り者として事実上の不利益を被る危険に脅かされているだけでなく、法的な次元でも訴えを提起する機会を厳しく制限されている。

オリンピック産業は、スポーツ例外主義により、労働者であるアスリートに異なる扱いができる。つまり彼らは第一にアスリートであり、人であることは二の次なのだ。
(レンスキー『オリンピックという名の虚構』、122-123頁)

 個々のアスリートの抗議行動は、象徴的な価値として重要であり、またそれに続くお決まりの制裁をものともしない勇気と揺るぎない意志を身をもって示すものだ。オリンピックスポーツ経営の有毒な文化は、内部告発者をさらに抑圧している。(同書134頁)

オリンピック産業の心臓部には、一番潤う層とはほど遠く、アスリートたちがしばしば人質にとられる搾取構造がある。アスリートたちは国家を意識させる演出に利用され、スポンサー企業の世間向けの顔となって、潤沢な利益を約束するオリンピック公式ブランドのランニングシューズ、ペットボトル水などを宣伝する。ナイキのような会社が「銀メダルを獲ったというな、金を獲れなかったのだ」というメッセージを販売促進に使うのをみると、宣伝ツールとしてのアスリートの寿命はあまり長くないのは確かなようだ。
(同書159頁)

オリンピック憲章(2018年)では、オリンピック競技関連の紛争は「もっぱらスポーツ仲裁裁判所に提出されるものとする」とされている。つまり、出場資格、ドーピング、その他の懲戒処分の根拠についてスポーツ運営組織の決定に異議を唱えるアスリートは、自国の人権裁決機関や法廷に訴えることができないということなのだ。現実の世界ではこの制度は強制仲裁と呼ばれ、明らかに被雇用者からもアスリートからも権利を奪っている。
(同書171-172頁)

 そのほかには、近代オリンピックが当初から帝国主義や人種差別と密接不可分であり、擬似的な軍事教練の側面を持っていたことなどが批判の論点として挙げられることもあるが、こうした多くの問題点を含んだオリンピックという巨象に打撃を与えるためには、いかなる手段を講じるべきなのだろうか。この点について、レンスキーとボイコフの立場は大きく異なる。レンスキーはアスリートの人権を擁護すべきとの原則に立脚しつつも、市民とアスリートとの連帯には深刻な限界があるとの認識にもとづき、「財布に打撃を与える」(同書211頁)、すなわちスポンサー企業を標的にしたボイコットが有効な手段であると主張する。

#オリンピックはどこにもいらない(#NOlympicsAnywhere)の背後にある感情がオリンピックアスリートに受け入れられる可能性は低く、スポンサーからより多くの資金を得ようとする彼らのキャンペーンが貧困防止活動家の心に響く可能性も同様に低い。要するに、これらの異なるグループ間での協力体制の構築と連帯には深刻な限界がある。(同書210頁)

 これに対して、ボイコフは市民とアスリートが反オリンピック運動において連帯する可能性を信じている。ボイコフはアスリート自身が抗議の声を上げることを積極的に評価する。ボイコフの著書の監訳者の一人である社会学者の小笠原博毅「反オリンピック運動は……アスリートの『転向』を歓迎すべきであり、排除するべきではない」と主張しており、ボイコフの主張と足並みを揃えている。

アクティビストのグループは特定のアスリートを対象に戦術的なアウトリーチを行ない、オリンピックの弊害的な側面に挑戦するための協力を提案できる。そうすることで、知名度が低いアスリートたちの楯になれる、経済的に安定した大物スターを標的にできるかもしれない。大物アスリートたちがIOCに反対し、状況が改善されない限り参加を保留すると言えば、それなりの影響を与えることができるだろう。キャリアの終わりを迎えようとしているオリンピアンや、参加しないという決定をしても大丈夫なだけのスポンサー契約を結んでいる選手で、たとえIOCからかなりの脅迫を受けてもかまわずに振る舞える人々から、このような異議申し立てが出てくることは大いにあり得る。(ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理』、207頁)

反オリンピック運動はアスリートに対して文句を言うべきなのだ。だがその文句は、あなた方アスリートも問題の一部なのだという一方的な断罪ではなく、あなた方アスリートは本当にこれでいいのかと問い続けることから始められるべきである。コロナ禍による大会の延期、もしくは中止の可能性が高まるなかであっても、矛盾だらけのオリンピック・パラリンピックにおいてアスリートは犠牲者でも何でもない。
(小笠原博毅「反対運動からスポーツの非オリンピック化へ:ジュールズ・ボイコフのユニークな視座」ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理』、258頁)

 反オリンピック運動が市民の生活する権利を守るためのものであるように、アスリートもまた自らが競技する権利とともに、納得いく条件と環境でない限り競技しない権利を守ることに自覚的になるべきだろう。そこに、反オリンピック運動とアスリートの競技権との結節点を作り出すことのできる可能性を見出すことはできないだろうか。……反オリンピック運動は……アスリートの「転向」を歓迎すべきであり、排除するべきではない。
(小笠原、同論攷259頁)

 このように、レンスキーとボイコフはアスリートとの連帯を消極的に評価するか、積極的に評価するかをめぐって異なる立場をとっている。そして、両者の主張を押さえることで、さまざまなグラデーションの反オリンピック論を布置する基準が得られる。例えば、ドイツ思想史家・評論家の藤崎剛人は「池江選手に五輪辞退をお願いするのは酷くない」と題した論攷(2021年5月16日公開)のなかで、市民とアスリートとのあいだには「実存的敵対関係」、「構造上絶対に和解できない政治的対立」があると論じているが、真意はともかく文章だけから判断するに、藤崎の立場はボイコフよりもレンスキー寄りであるように思われる。

 それでは、『ReSTART!』に込められたオリンピック批判は、反オリンピック論のなかでどのような位置を占めていると評価できるのだろうか。この点については節を改めて、『ReSTART!』の筋書きを追いながら検討を進めていこう。

『ReSTART!』におけるオリンピック批判:その意義と限界

 『ReSTART!』は西暦5100年、すなわち、前作(TVアニメ版)で神崎あかりが第1003代宇宙撫子の栄冠に輝き、仲間たちとともに極悪スポーツ宇宙人・ネリリ星人の侵略を退けてから百年後の世界が舞台となっている。かつての大運動会は「神(しん)・大運動会」と装いを新たにし、太陽系の女王である宇宙撫子(コスモビューティー)の座をめぐって、各惑星代表がしのぎを削る大会へと変貌を遂げていた。本作の主人公・明星かなたは、北海道のジャガイモ農家の出身で、日々の農作業で鍛えた足腰が持ち味のアスリートだ。本作の物語は、かなたが幼い頃に交わした約束を果たすため、神・大運動会の予選を勝ち抜き、地球代表として「大学衛星」の寄宿校に入校するところから始まる。かなたはそこで各惑星代表の少女たち――金星代表のシェリイ・ウォン、月代表のヤナ・クリストファ、火星代表のリディア・ガートランド、冥王星代表のパリア・レスピーギ、そしてフォン・エスクラーボコロニー代表のエヴァ・ガレンシュタイン――と出会い、神・大運動会の大舞台で競い合うことになる。
 本作の際立った特徴は、大運動会という構造を所与のものとして、おおむね大運動会内部の葛藤を描くことに注力していた前作をなぞるのではなく、神・大運動会の背後で暗躍する「太陽系管理委員会」という組織にアスリートが立ち向かう展開を主軸とした点に認められる。太陽系管理委員会は「太陽系を陰から支配する、汚らわしい人さらいの人形遣いたち」、太陽系の「統合政府の議会をも押さえる、少数独裁のグループ」である(第7話)。太陽系の女王である「宇宙撫子を有している星やコロニーが、宇宙の全権を得る」という秩序に沿って(第9話)、委員会は宇宙撫子を傀儡とした太陽系支配を敷いてきた。委員会は惑星・コロニー・巨大企業などを傘下に収め、優秀な遺伝子を持つ者を誘拐・監禁しては、遺伝子工学によってデザイナーズチャイルドを生み出し、優勝候補として神・大運動会に送り込んでいる。自分たちの息のかかったアスリートが神・大運動会を制覇すれば、太陽系統合の象徴とも言うべき宇宙撫子を通じて太陽系全域に影響力を行使できるというわけだ。このように、委員会による支配はスポーツの祭典の公正性を損なっているが、それにとどまらず、国際秩序における優劣を固定化し、貧富の差を助長する悪影響も及ぼしている。作中では、委員会と太いパイプを持つ火星の巨大企業・ガートランドグループが供給する武器のせいで月面の内戦が泥沼化する様子が描かれている。
 こうした委員会の暗躍はアスリートの人生にも暗い影を落としている。月代表のヤナは故郷の内戦によって難民となり、火星代表のリディアは軍需産業で儲ける「死の商人」ガートランドグループの総帥の娘として忌み嫌われてきた。ヤナとリディアは立場こそ違えど、宇宙撫子となって平和を実現する(月の内戦を終結させる)という共通の大志を抱いており、衝突を繰り返しながらも好敵手として認め合う仲にいたる。しかし、ヤナは月時代の親友・ユシルからその甘い態度を糾弾されてしまう。月での最終予選でヤナに競り負け、月代表の座を逃したユシルは「爆弾で世界を変える」過激派のテロリストに転身し、「大学衛星の寄宿舎は、警備が厳重でなかなか手が出せないの。ねえ、ヤナ……あなたならリディア・ガートランドを殺せるんじゃない?」とヤナを誘惑する(第4話)。ヤナはリディアとユシルという二人の友人の狭間で懊悩することになる。
 そして何より悲惨なのが、委員会の事実上の奴隷植民地であるフォン・エスクラーボコロニー代表のエヴァだ。デザイナーズチャイルドとして人工的に生み出された彼女は、委員会に母親を人質に取られ、神・大運動会で優勝するための苛酷なトレーニングを課されてきた。勝負に対して非情に徹しきれなければ折檻を受け、正確無比で感情を持たない機械のように調整されてきたのだ。しかし、エヴァは第8話の終わりで過去の記憶が戻り、委員会の悪事を寄宿校の仲間と教員に打ち明けることになる。エヴァが意のままに動く「人形」でなくなったことを知った委員会は彼女を切り捨て、彼女のクローンであるセカンドエヴァ(セヴァ)を替え玉として神・大運動会に差し向ける。
 以上述べたことからも明らかなように、国際的な政争の場と化したスポーツの祭典が、少数のエリートの既得権益を保持し、特定の企業に便宜を図る一方で、多くの市民の生活に甚大な悪影響を及ぼしているという本作の構図は、結果的に近代オリンピックの宿痾を言い当てた格好となっている。本作の黒幕である太陽系管理委員会が、表面的にスポーツ例外主義を標榜しながら、アスリートを使い捨てて駆動し続けるグローバル資本主義の権化、IOCの姿と重なって見えてくるのは筆者だけだろうか。第9話において、委員会の悪事を追う刑事のジェフは「相手は裏から世界を牛耳っている。いくら我々が声を上げても、揉み消されてしまう」と語る。このセリフから、ボイコフの次の指摘を想起するのは不自然なことではない。

反オリンピックのアクティビズムに携わるということは、一般大衆からの批判が目立って増えてきたにもかかわらず、いまだに主流メディアが作りだすムードのなかを無頓着に漂うオリンピック賛成の時代精神に切り込んでいく、苦しい闘いを受け入れるということだ。
(ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理』、53頁)

 それゆえ、本作は神・大運動会で優勝したアスリートが、宇宙撫子の地位と勝利者インタビューの機会を利用して、中継カメラの前で公開告発を行うという手法を選んだ。第12話(最終回)において、神・大運動会の決勝・100m走でセカンドエヴァ(セヴァ)を降したかなたは、新たな宇宙撫子として世界中の注目を一身に集めるなか、委員会の悪事を告発するエヴァの母親のビデオメッセージを放映する。こうして、太陽系管理委員会の構成員であるアルファ、ベータ、ガンマの三人はとうとう逮捕・投獄され、物語は大団円を迎える。しかし、蓋を開けてみれば、現実の世界で勝利を収めたのはオリンピック・アスリートではなく「デルタ」株だった、とはあまりに皮肉なことである。
 そして、宇宙撫子の座に就いたかなたは「これからの宇宙撫子は政治から切り離し、スポーツはスポーツのもとへ返すべし」と述べて、三つのpledge(誓約/公約)を掲げる。

・神・大運動会を廃止し各国代表による共和制へ
・スポーツの祭典と政治の完全なる切り離し
・純粋なるスポーツ祭典としての大運動会の毎年開催復活

 アスリート自身による告発・反対運動によって神・大運動会を廃止するという『ReSTART!』の骨子は、市民とアスリートとの連帯を信じ、アスリートの「転向」すら促すボイコフ・小笠原ラインのオリンピック批判とユーモラスに響き合う。本作の最終回でかなたが掲げた理想については、テレビ朝日のアリバイ工作として話半分に聞く必要はあるのかもしれないが、男性的な性欲に媚びているとも言いうる歪なジャンルにおいてさえ、オリンピック批判の色彩を帯びた作品が生み出されたことはひとまず歓迎すべきことだろう。とはいえ、2021年7月、欧州ビーチハンドボール選手権でビキニパンツの着用を拒否したノルウェー女子代表チームに規定違反を理由に罰金が科されたり、女性アスリートの盗撮被害や性的な目的での画像・動画拡散が問題視されたりしているこの御時世に、競泳水着やレオタードを模した「ハイレグ」衣装を着用させた少女たちを走らせるという趣向は不用意と言うほかなく、「フェティシズム」の一言で正当化するのは難しい。本作の限界は「バトルアスリーテス」というタイトルにも表れている有徴性であり、ジェンダー・セクシュアリティの問題に踏み込めないところにある。

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 この点に関連して、レンスキーはスポーツの男女別編成がジェンダー・セクシュアリティに対する二元論的思考を強化していると指摘する。アスリートを男と女に截然と分かつ構造のもとでは、高い身体能力や恵まれた体躯は、それが「男らしさ」に結びつく場合は称揚される一方で、反対のケースでは「あの女性アスリートは実は男なのではないか」といった女性嫌悪を助長する要因となる。

 19世紀以降、より速く、より高く、より強く、というオリンピックモデルによって、性別、ジェンダー、セクシュアリティの問題に対する二元論的思考が抜きがたく定着してしまった。競技スポーツを完璧な男女のカテゴリーへ編成したことは、体型とスポーツパフォーマンスにジェンダーに関連した(しかしジェンダーが決定打になるわけではない)差異があることの視覚的で象徴的なエビデンスになっているのだが、それが単に社会の規範を反映するレベルを超えているのだ。1956年メルボルン夏季オリンピックを皮切りにスポーツ・メガイベントのテレビ中継という世界が出現し、世界中の視聴者が、男らしい種目で活躍する男子と女らしい種目で活躍する女子の映像をふんだんに与えられ、それによってスポーツの男らしさ女らしさという狭い定義がますます強く根付いた。
(レンスキー『オリンピックという名の虚構』、162頁)

目に見えて測定可能な「天性の武器」〔注:長い腕、脚、突出した筋肉など〕はわかりやすく、それがオリンピックで男性の好成績に貢献する場合には、称賛と喝采を浴びるのはどういうことなのだろうか。唯一目につく例外が黒人選手で、「人種」が故に白人のライバル選手よりも生来的に有利なものをもっていると責められるケースである。対象的に、高アンドロゲン症は大部分が身体の内部のことであり、必然的に女性の体の構造、生理、そしてセクシュアリティという「謎」が想念されるため、男性とは劇的に異なる一般社会とメディアの反応が生まれる。高アンドロゲン症の女性を異様なもののように言い立てることが、「公正な競争の場」レトリックと「私たちが考えているような女性スポーツの終わり」というお決まりの予言じみたせりふでいつも正当化されてしまうのだ。(同書164頁)

 こうした男女差は引退した元アスリートや研究者についても認められるところで、レンスキーはそれを「鳥肌が立つような効果」と呼んでいる(同書44頁)。

個人的にスポーツへ投資し、スポーツの場で強化され、称賛される派遣的な男性性のあり方によって利益を得ている男性研究者にとっては、特にオリンピックへの過度の感情的関与が罠となりうる。多くの男性研究者が、自身のスポーツ選手としてのキャリアが終わった後、数十年経っても元競技アスリートであることを自称し続ける一方で、そうする女性研究者が少数であるのは偶然ではない。著名なアスリートやスポーツ管理者とお近づきになることに、代償的な喜びを得ている様子の研究者たちにも同様の反応がはっきり表れている。(同書44-45頁)

 さて、このようにジェンダー・セクシュアリティ研究に立脚する女性研究者が市民とアスリートとの連帯に消極的な姿勢を示していたことに鑑みると、実は『ReSTART!』という二次元美少女コンテンツで展開されたオリンピック批判、すなわち市民とアスリートとの連帯の可能性は男性目線という点では首尾一貫していたと言えないだろうか。もちろん、レンスキーの指摘は正当であるのだが、アイデンティティ・ポリティクスを常に最優先事項とする必然性があるわけではないので、『ReSTART!』にはジェンダー的配慮が行き届いていないからオリンピック批判として成立しない、ということにはならない。本作におけるオリンピック批判の意義と限界は以上のように整理することができる。

それでは、『ReSTART!』は傑作なのか?

 ここまで、『ReSTART!』に込められたオリンピック批判の意義と限界を明らかにしてきたが、本作がアニメとしてよくできているか、面白いかはまた別の話である。本作は志の高い真面目な脚本に絵(画面)がついてこないという致命的な問題を抱えているため、本節で補足することにしたい。
 いきなり辛辣なことを言うが、本作は全体的になんとも言えない安っぽい画面で構成されており、特に作品の肝となる競技シーンはどれも躍動感に欠けている。「スプリント勝負」「デッドヒート」というナレーションと画面が合っておらず、軽いジョギングかウォーミングアップをしているように見える程度ならまだマシで、走っているように見えないことすらある(第1話Aパートから不安になる出来)。この問題の解決策としては、賛否両論の「倍速視聴」をしてみるとよい。本作を1.5~2倍速で再生するとそこそこスピード感があり、登場人物たちの競り合う様子を楽しむことができる。ここからわかるのは、本作が実質的に15分枠に収まるものを、作画コストを節約しながら30分枠に引き伸ばしているということであり、制作会社であるアニメーションスタジオ・セブンの体力の限界を憂慮せざるをえない。
 絵(画面)の問題は競技シーンにとどまらない。一つだけ例を挙げておこう。金星代表のシェリイ・ウォンは不慮の事故で右腕と左脚を失い、義肢の選手となった不屈の闘士だが、この設定を予習抜きで画面から察知するのは極めて難しいように思われる。第1話、大学衛星でのかなたとシェリイの初対面のシーンで、「お手伝いしますね」とキャリーケースを手に取ろうとしたかなたの好意を、シェリイは「余計なことしないで! 同情はいらないから!」と厳しくはねつけるのだが、画面上では義肢が肌と同じ色で塗られており、接合部も線で描かれているため、一見してシェリイが義肢を装着しているように見えないのである。そのため、シェリイが急に激昂して叫んだように感じられ、情緒不安定感が否めない。その後、かなたがシェリイをルームメイトに選ぶシーンでも、「嫌じゃないわけ? だって、こんな身体だし」というシェリイのセリフは、同様の理由から画面を上滑りしてしまっている。
 本作は、音声面では拘束と解放を巧みに対照させるテクニカルな仕上がりとなっており、冥王星代表のパリア・レスピーギ役を演じる新人・南條ひかるを除いて「さすがに感」に溢れたキャスティングであるだけに、絵(画面)の弱さがひときわ惜しまれる。天性を体現する諸星すみれ(かなた役)はとにかく明朗快活で疲れ知らずの弾丸娘を好演し、富田美憂(シェリイ役)は『ガヴリールドロップアウト』(2017年1月期)や『戦闘員、派遣します!』(2021年4月期)の音域で低めに調律され、ボーイッシュなやさぐれ感を心地よく奏でている。鬼頭明里(リディア役)がワガママでお転婆なお嬢様として、この世のものとは思えない神秘性を帯びた早見沙織(ヤナ役)を牽引・解放するのも非常に面白い。理想に殉じようとするテロリスト、ユシル役を演じる種﨑敦美との三つ巴の争いも耳をすまして堪能されたい(ただし、絵はついてこない)。そして、石川由依(エヴァ役)は役柄上きつく緊縛され、最も低く抑えめに制御されているが、森嶋秀太(保険医のヨハン役)による小物感全開の賑やかしも相まって、決してぼやけて聞こえることはない。総合評価としては、諸星すみれが『BNA』(2020年4月期)に続いてスイーパー(トンチキアニメ掃除人)の役割を果たした印象が強い。そんな彼女も2021年8月末現在、まだ22歳なのである!
 なお、かなたとシェリイに諸星すみれと富田美憂という『アイカツ!』&『アイカツスターズ!』主役コンビを配したのは偶然のようだが(下掲記事を参照)、そうは言っても、北海道のジャガイモ農家の出身で、北海道弁を話す少女が諸星すみれの声で崖をのぼる様子を見せられると、『アイカツ!』第4シーズンを諸星すみれ主演で焼き直したかったのかな、というオタク的邪推がどうしても頭をよぎってしまう。そもそも『バトルアスリーテス大運動会』の主人公・神崎あかりが北海道の出身であり、かなたがあかりの系譜に属する者であることは示唆されているため(かなたの「おばあちゃん」役を夏樹リオが演じている、覚醒したかなたは頭髪があかりのように触覚状に逆立つ、かなたはあかり譲りのソニックウェーブ走法を使える、など)、前作へのオマージュであることは明らかなのだけれど。

 また、『ReSTART!』の第2話において、神(しん)・大運動会のために生み出された「エヴァ」という名のクローン人間が、太陽系管理委員会の前で全裸にされて睨め回されるという描写も、四半世紀かけてようやく完結した『エヴァンゲリオン』シリーズの安っぽいパロディと言うべきであろう。
 以上より、本作は東京オリンピックと『エヴァンゲリオン』シリーズを茶化したという点で2021年の時代精神を象徴する作品である、と悪意をもって評することもできよう。だが、かかる意欲的な企画があんなクオリティに終わってしまったことを思うに、資本とメディアの力は甚大であって、批判を事実上無効化してしまうのだと嘆息せざるをえない。換言すれば、大衆が熱狂するような作品を手掛ける有名制作会社はこのような危ない橋は渡らないということだ。カジュアルなオリンピック批判が表立っては許されないという事態は、かえって批判の潜在的な破壊力を証明しているとも言える。本作の最終回でかなたは次のように言っていた。「一番を目指す本当の意味はね、大きな夢を抱いて、後から来る人にバトンタッチすること」。本作からオリンピック批判のバトンを受け取るかどうかは、我々一人ひとりにかかっている。

おわりに

 ボイコフは、オリンピック批判を行う際にも、ユーモアを取り入れることが重要かつ効果的であるということを訴えている。

 アクティビストが抑圧をそらす方法の一つは、抗議活動のレパートリーにユーモアを取り入れることである。コメディは緊張を和らげ、興味を引くためのスペースを開き、日の当たらない主義主張にスポットライトを当て、誰が誰のチームにいるのか整理するのに役立つ。……アクティビストがコメディを使うと、政治的なパンチを維持しながら、社会的な壁を破る歓迎の仕方になり得る。時にはあからさまに政治的にならないことが、じつはより政治的効果を上げるものであり、メディアからも受け入れられやすい。(ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理』、60-61頁)

 喜劇は盾であり武器でもある。ジグムント・フロイトが「機知工作」と呼んだものは、インターネットの騒乱の容赦ない騒音を少しばかり減らすことができる。笑いとユーモアは普遍的な人間の経験である。コメディは相対的に力の乏しい者の武器にもなるが、痛みのなかを進んでいくための方法でもある。ユーモアには本質的に左翼的なものは何もないが、一流の政治コメディのほとんどは左派からもたらされる。(同書148頁)

 本稿で取り上げた『ReSTART!』は(画面とパロディが失笑を誘うものの)コメディではないが、本邦には東京オリンピックを揶揄した純然たるコメディアニメがあるので、最後に紹介しておきたい。『邪神ちゃんドロップキック』(2018年7月期)の第2話では、魔界から東京・神保町に召喚され、魔界へ帰れなくなった主人公・邪神ちゃんが次のように喚き散らす。

暑いですの! 湿度も高いし、不快指数100、いや1000、もういっそのこと2020ですの! こんな国で2020万国大運動会やったら、坊主丸儲けのお・も・て・な・しですの~!

 2021年7月下旬になって、「五輪が開催される東京の夏は温暖で、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候です」という招致委員会の虚偽申告に海外メディアから批判の声が相次いだことは記憶に新しいが、そんなことは3年前からわかっていたことである。TVアニメ第2期である『邪神ちゃんドロップキック’』(2020年4月期)の第4話では、より皮肉交じりに東京オリンピックの「経済効果」なるおとぎ話と、「ボランティア」を動員するという搾取構造が槍玉に挙げられている。

邪神ちゃん 今月の国民健康保険払ったら、おこづかいなくなりましたの! 何なんですの、この国は! 国民年金に都民税や区民税、買い物すれば消費税もかかりますの! なんて生きづらい国なんですの!
ナレーション そんなニッポンだが、万国大運動会が開催されれば経済効果は何十兆円とも言われているぞ! しかも、大会ボランティアには一日千円のプリペイドカードが提供される予定だ! ボランティアなのに一日千円! なんて太っ腹なんだ~! 太っ腹~!
ぺこら 真夏の炎天下でのボランティア活動で、一日千円のプリペイドカード……! 丸一日かけて……千円だなんて……! ありがたい!
邪神ちゃん 千円じゃ金策の足しにもなりませんの……。

 芸人のせやろがいおじさん(榎森耕助)は2021年8月8日、東京オリンピックの閉会式に合わせてアップした動画のなかで、「今年の秋は衆院選がありますよ。TOKYO 2020の次はTOHYO 2021、盛り上げていかなあかんのとちゃうか」と雄叫びを上げた。我々は“TOKYO 2020”を経て、政治を「リスタート」させられるのだろうか。俺たちの「バトル」はこれからだ!

参考文献(2022年1月12日追記)

高山宏『ガラスのような幸福:即物近代史序説』五柳書院、1994年。

ジュールズ・ボイコフ(井谷聡子/鵜飼哲/小笠原博毅監訳)『オリンピック 反対する側の論理:東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』作品社、2021年。

ヘレン・ジェファーソン・レンスキー(井谷惠子/井谷聡子監訳)『オリンピックという名の虚構:政治・教育・ジェンダーの視点から』晃洋書房、2021年。

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