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バニラは合成香料化学で初めてのサクセスストーリー『香りの愉しみ、匂いの秘密』(ルカ・トウーリン)


ルカ・トウーリン(著)山下篤子(訳)『香りの愉しみ、匂いの秘密』

ルカ・トウーリンについて知っていることはほんの少しだけ。1953年のレバノンに生まれたこと。生物物理学と生理学を修得した嗅覚研究者であること。

私たちに共通点があるとしたら香水をコレクションしていること、くらいだろうな。古道具屋で古い香水を探しまわっているところもおなじ。
匂いと記憶は不思議な力で結びついているから、香りに運ばれてきた記憶というのは具体的で、鼻うたくらいの軽やかさで現実とむすびついてしまう。私が彼に惹かれたのはそのせいだと思う。すれちがいながら、おなじ現実を生きている。

彼の嗅覚にかかれば、「バニラは合成香料化学で初めてのサクセスストーリー」で「スズランはマックスフィールド・パリッシュの絵のような、おぼろげな永遠の朝の光りをあびたミュゲの領域」で「アンバーは本物のビニール盤レコードの手入れに使われた昔なつかしいクリーナー液」になる。
香りの体感をこんなふうに言葉にしてしまえる彼のロマンチックさには惚れ惚れしてしまう。

言葉のもつ麻薬的な力と、香水の紡ぎだすイメージの美しさ。
彼の暮らす広大な香りの地図では、匂いの空間は「ランドスケープ」のように拡がり、「化学の詩」が余韻となってみちているのだ。

腕の良い技術者の香水は「正確な時計のように機能する」のだという。そうして「最初は速く、のちにはおごそかに進む匂いの物質の行進」が、いま自分がストーリーのどのあたりにいるかを教えてくれる。
楽しみな夕刻を予告する仕事のあとのひとふきにはじまり、恋人たちの視線を交錯させる午後十時の香り、香水が色濃く重い分子に煮詰まる午前三時には睡眠か、あるいはそのほかの喜びがある。

良い香りのする女性は蜃気楼のようにたおやかだと思う。仄かで、つかみどころがない。香水は人の輪郭に揺らぎを与える。香りみたいに。
世界ではつねに新しい分子が作られているというのに、鼻が匂いを読みとる仕組みはあまりよくわかっていない。それでも、依然としてそこにある。誰とも共有できない記憶として、鮮明な印象を残していく。

秘密めいているなあ。
私は秘密めいたものが大好きだ。きっと作者もそうだろうな、と、思う。

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