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田舎から出てきたばかりの娘には、パリの通りは歩けない『衣服のアルケオロジー』(フィリップ・ペロー)

フィリップ・ペロー『衣服のアルケオロジー 服装からみた19世紀フランス社会の差異構造』、大矢タカヤス訳、ちくま学芸文庫、2022年



身づくろいに時間をかけることは、自分をもてなすことだ。だから19世紀フランスの大ブルジョワジー社会に生きる女性の身づくろいには、いつも服独自の、彼女たち自身の時間が流れていたように思う。

「申し分ない」女性たちは、この時代、ひっきりなしに(ときには一日に8回も)脱ぐことと着ることを繰りかえしていた。
自分の年齢、容貌、肌と髪の色と調和するように、なおかつ自分の所有する財産や社交界の地位、時刻、季節、場所、当日に予定されている出来事を考慮して衣装を選ぶのが作法の基本だったからだ。

女性たちの一日はこんな具合。
朝は、暖かくて気心地のよい部屋着で目覚める。散歩用の乗馬服に着替えて、昼食のための優雅な化粧着に着替える。出かける予定があるなら豪奢な訪問着に着替え、帰宅後は晩餐用の衣装に着替える。夜会や舞踏会のある日には、そのための着替えがある。これに日々の化粧とヘアセット、脱毛にその他の美容が加わるのだから、いくらお金と時間があっても体力が足りない。セルフケアには、持続的なエネルギーが必要なことを世の女性たちは承知している。

服装からみた19世紀フランス社会の差異構造、というサブタイトルが示すとおり、この本は当時の衣服について詳しいのだけれど、そのうえ歩き方まで指導してくれる。
足はかならず舗石の中央につくように。舗石と舗石のあいだは滑りやすいので注意すること。踵をつくときは、足先から力を入れること。スカートは踝のほんの少しうえまで持ちあげる。でも踝が見えすぎるとはしたないので、高さには気をつけなさい。
だから田舎から出てきたばかりの娘には、パリの通りは歩けない。ぶつかってくる通行人をひょいとかわし、四方八方から殺到する馬車をすり抜けて、そのうえ(泥まみれの)道を裾のながい衣装に気を配り、靴に泥染みをつくらず、布地をひっかけずに闊歩してゆく。

そんなふうにしてサラ・ベルナールもナナもテレーザもパリの街を歩いたのだろうか。
本を閉じたあとは、そのままバルザックやゾラの小説を開きたい。これまで影絵のようだった小説の登場人物たちが布地をまとって歩いていく。


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