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かとうさんはなぜやらないほうがいいことをやるのか? 「儀式論」から読み解く謎の人生

かとうさんとは、一番上の写真に写っている男性のことです。

彼は、「他の人が自分をどう見ているか」に興味があるそうです。

かとうさんについて書いたり、写真を載せることも許可をいただいたので、僕の視点から見た「かとうさん論」を書いてみました。



かとうさんと読書会

僕とかとうさんは、読書会で知り合いました。

かとうさんは、現在、世間的には「有名人」というわけではありません。

彼は、「無名人インタビュー」という「無名の人」が半生を語る企画に自ら応募してインタビューに答えています。

自身で認める現在「無名人」のかとうさんですが、僕のいる読書会の中では「マスコットキャラクター」のような人気ぶりです。

なぜ彼はコミュニティ内で有名なのか、その理由に迫りました。

その鍵は、彼が「やらないほうがいいこと」をしていることにありました。


かとうさんは何をやっているのか

具体的に彼がやっている「やらないほうがいいこと」を説明していきます。

その中でも、僕からすれば「やらないほうがいいこと」と考えられるものを挙げていきます。


たくさんオフ会する

今この文章を読まれている方は、「オフ会」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

若い人が使う言葉です。簡単にいうと、オンライン(ネット)で知り合った人同士がオフラインで集まる会のことです。

一般的には、ネットで知り合ったばかりの人と会うことは、相手がどんな人かわからないなどの不安もあるので、リアルで会うのは怖いこともあるかと思います。

また、相手の都合や、相手から自分はどのように思われているかが不安で、自分から誘って断られる怖さもあって、なかなか関係を踏み込めないこともあると思います。

しかし、かとうさんの場合は、違います。彼は、それほどネットでの交流が多くない人であっても、オフ会の機会があれば自分から主体的に誘ったり、誘われたら積極的に参加するのです。

かとうさんについて誤解していけないのは、彼はものすごいお金持ちだからオフ会などの人付き合いに参加しているわけではないということです。

むしろ、彼は多くの場合、お金がなくて困っているのです。

どれくらい困っているかというと、本来支払わないといけないような期限のある料金の支払いにも度々困るくらいにお金に困っているのです。

それなのに、オフ会に行くのです。

この記事の一番上の写真は、先日僕が彼に誘われて行ったオフ会の時の写真です。

場所はファミレスのガストです。

写真に写っている料理は「ゴーゴーカレー監修 金沢カレーガスト本気盛り」です。

ゴーゴーカレー監修 金沢カレーガスト本気盛り

なぜ、金沢のカレーを食べているかというと、かとうさんが僕と会う前日に金沢で読書会の人たちとオフ会をしていたので、記念として注文しました。

東京から金沢へのバスは、平日といえども、片道でも数千円はかかります。

移動には片道で八時間はかかったそうです。

どうしてそこまでオフ会に行こうと思うのか彼に質問すると、「私は毎日、今までやったことがないことをするのが好きだからです」と言いました。

僕はその考えが気になったので、より真意を確かめるため、

「もし、やると必ず楽しいことですでにやったことのあることと、やっても必ずしも楽しいかどうかはわからないけれどもまだやったことがないことがあるとしたら、どちらをやりますか?」

と質問しました。

かとうさんは、たとえ必ず楽しいことがあったとしても、やったことのないほうを選ぶとのことでした。

やると必ず楽しいことを選ぶのは、安全が好きな人には魅力的なことです。

かとうさんは、安全志向とは正反対のような考え方です。

やったことがないことをやるためなら、お金も時間も使います。

飽きっぽかったり、好奇心が旺盛なのかもしれません。

やると必ず楽しいことという「やったほうがいいこと」をやるのではなく、新たな体験を求めてお金がなくてもオフ会に参加するという「やらないほうがいいこと」をやるのがかとうさんの特徴と言えそうです。


いっぱい贈与する

かとうさんの読書会の人たちの交流は、オフ会だけではありません。

例えば、今画面を開いているnote。

読書会の参加者が書いた記事が面白いと思ったら、投げ銭(サポート)して感想(コメント)を贈与しています。

この記事を書いている時点で、かとうさんの「サポートしたnote」をいれるマガジンには、303本のサポートした記事が入っています。

新しく読書会に入ったメンバーには、どのように過ごすと場を楽しめるかをオンライン説明会を開いたり記事を書くなどして定期的に共有しています。

遠くでオフ会をするときは、お土産を持って行くこともあるそうです。

僕とかとうさんが初めて会ったのは、僕が読書会内でいらないものを千円で売るチャットルームの中で、「百冊の本からそれぞれのお気に入りのページを1ページずつを破り取って、100枚の紙の束にしたもの」を出品したとき、かとうさんが購入してくれたときの受け渡しでした。

僕が出品して、かとうさんが購入した、100枚の紙の束
コンセプトは「人力のChatGPT(それっぽく文をつなげるAI)」でした
一番上のページは、まるへそ太郎市監修の「2ちゃんねるAA大辞典」の75ページ

僕の出品物に興味を持ったというよりは、あらゆる出品者からそれぞれ購入していたようでした。

何の役にも立たない紙を購入されたことが申し訳なく感じたので、受け渡しの帰り道でスタバのストロベリーフラペチーノをかとうさんに奢りました。

スタバのストロベリーフラペチーノ

社会学者のマルセル・モースが1925年に書いた贈与論という本では、贈り物を渡された人はお返しをする義務が生まれて、集団内で贈与の関係が広がることが、人間関係を維持する上で重要であると指摘されています。

僕は、かとうさんが贈与した結果、そのお返しがきているのかが気になり、実情を聞いてみました。

かとうさんによると、お返しが返ってこないこともあるようです。

お土産を渡しても、感想を言ってもらえないこともあるようです。

それでも、かとうさんは贈与を続けます。

なぜなら、かとうさんは、贈与した結果、たとえお返しがなかったとしても「お返しがこなかった」という事実を受け止めるだけだからというのです。

お返しがなくても、たいして気にしないそうです。

「なぜ、見返りがないこともあるのに、贈与を続けるのか?」

僕がそう尋ねると、「儀礼」だと彼は答えました。


儀礼とは何か

儀式論

ここに「儀式論」という本があります。

一条真也、儀式論、弘文堂

僕はエデン横浜というお店の本棚で見つけて借りました。

豪華な装丁のされた分厚い本ですが、読書会の課題図書だったこともあり、かとうさんは購入して読んだそうです。

どれほどお金に困っていても、一冊で五千円近くする本を購入するという「やらないほうがいいこと」をしている安定のかとうさんですが、儀礼への関心が高じて専門書を手に取るところからもその熱意が伝わります。


消極的儀礼と積極的儀礼

「儀式論」では、儀礼は「消極的儀礼」と「積極的儀礼」の二種類があると書いてありました。

デュルケムは聖/俗二分論に関係づけた儀礼論を組み立て、さらに儀礼を「消極的儀礼」と「積極的儀礼」に大別した。消極的儀礼とは聖と俗の二領域が互いに他を侵害することを防ぐための儀礼を意味する。それはつねに対象を回避する、つまりタブー(禁忌)の形式を取る。このタブーという形式によって、人は俗界から分離し、聖界に接近することができる。
これに対して積極的儀礼は「聖存在」とのコミュニオン、供犠、奉献などの行為により、聖なる力を高める。それとともに、集団の集合的感情を強化する。すなわち、聖性高揚のための積極的な儀礼である。消極的儀礼および積極的儀礼は表裏の関係にあり、両者はしばしば同じ機能を果たすという。人は断食、禁戒、自己裁断などによって、コミュニオンや奉献と同じ結果をうるからである。また逆に供物、供犠はあらゆる種類の欠乏と放棄を含むからである。
個々の儀礼がそれぞれに両面性を含むということは、つまり、儀礼の固有性を超えたところにその本質があるとは言えないだろうか。儀礼や儀式はその内容ではなく、存在そのものに意義があり、それは文化の継承であり、自らのアイデンティティの確認作業なのである。

一条真也、儀式論、10-11ページ、弘文堂

かとうさんが「やらないほうがいいこと」をやってしまうのは、消極的儀礼よりも積極的儀礼を優先する結果ではないかと僕は考えました。


かとうさんと積極的儀礼

以前、かとうさんがたくさん贈与をしていることを知り、まるで仏教などの「修行」、あるいはキリスト教の「施し」やイスラム教の「喜捨」のような行動のように感じました。

かとうさんに「その贈与は宗教的な動機があるのか?」と質問したところ、「宗教的な理由はなく、現実世界で効力がある(=人間関係が円滑になる)ことを知っているから贈与している」と回答されました。

実際、別の大喜利バーのイベントでかとうさんと会ったとき、かとうさんは他の参加者にジュースを奢って、雑談の場をつくられていて、交流が活発になるなど、配慮がありがたいです。

贈与が、本人にとって宗教心が背後になかったとしても、それをすることで現世御利益があるという信仰と、対人関係が良くなる経験があるからこそ、普通以上の贈与実践がおき、それが結果的に僕には「聖性」を感じさせたのではないかと考えました。

また、読書会での人気ぶりが「オタサーの姫」と呼ばれる、オタクサークルでメンバーから人気を集める女性のキャラクターとかとうさんが似ており、かとうさん起点のサークルクラッシュが起きる危険性も含めて僕から指摘をしたことがありました。

かとうさんは早速、オタサーの姫に関する本(オタサーの姫に学ぶ 愛されマル秘テクニック集 )を読み、「オタサーの姫は儀礼ができる」「容姿より儀礼がオタサーのなるためには重要」と語っていました。具体的には、人に積極的に挨拶するような基礎的な(積極的)儀礼をすることが重要なのだと読み取ったそうです。つまり、僕の指摘はあながち間違いという訳でなく、儀礼を通じてオタサーの姫のようなマスコットキャラクター化が起きているという見方ができると思いました。


かとうさんと消極的儀礼

挨拶や贈与のような能動的・主体的・積極的な儀礼の実践は効果があることを理解して実践しているかとうさんですが、消極的儀礼はどうでしょうか。

消極的儀礼は、実践するのが積極的儀礼に比べて難しいと思います。

なぜなら、消極的儀礼は「してはいけないこと=禁忌=タブー」を回避することなので、積極的儀礼と比べると目に見えないルールに気づく必要があることと、その人間関係への効果が「減点されないように働く」という点で、積極的儀礼のような「加点されるように働く」影響に比べると時間差のある効果なので、意識しにくいと思われるからです。

かとうさんは、以前読書会で出禁になっています。このときに、読書会での禁忌=タブー=ルールがつくられていったそうです。つまり、一般的には、明文化されてないことで「やらないほういい」とされていることが何かが、かとうさんの出禁騒動によってルールが作られて見えるようになり、結果、コミュニティの安定性が強化されたと言えます。また、かとうさんは改善を繰り返すことができるので、してはいけないと言われたことならしないので「消極的儀礼」も人からのフィードバックを受ければできると見られます。

かとうさんがやらないほうがいいことをやる理由

ここまでで、人間関係の基礎に儀礼があること、積極的儀礼と間接的儀礼の二種類があること、かとうさんはそのどちらもできること、人間関係が円滑になった実感を持っていて、実際にその通りであることを振り返りました。

そのうえで、なぜ、かとうさんがお金に余裕がない状況であっても、贈与やオフ会をするという「やらないほうがいいこと」と見られることをするのかについて考えてみたいと思います。


資本主義社会にとっての禁忌(タブー)

まず、第一に、お金が不足している状況においてさらに人付き合いにお金を使うこと自体が「やらないほうがいいこと」のように(少なくとも自分は)感じてしまう理由を考えてみます。

それは、何かの支払いに遅れる状況などで、返済以外にお金を使う行為が、資本主義社会の枠組みでは、二つのルールに反するタブーのように思われるからではないかと思いました。

一つ目は、料金を払わなければ牛丼も食べることができないといったように無銭飲食を禁止するような、資本主義社会における「対価を払わないと商品が受け取れない」ルールです。

二つ目は借りたお金は返さなければならず、個人の生活レベルでは、できる限り返済の優先が望ましいとするような金融のルールです。事業をするため借金をして長期スパンで返済する場合はありますが、個人レベルでは利息と返済のプレッシャーのようなストレスをできる限り少なくなるように返済の優先度を上げる場合が多いのではないでしょうか。


かとうさんの中で起きていると推測される「儀礼の葛藤」

かとうさんは、資本主義社会の経済的な観点での禁忌=タブーを犯しつつ、対人面での積極的儀礼をしている点で、その行動は「資本主義社会における消極的儀礼よりも、人間関係を基盤とした、人間関係資本主義社会における積極的儀礼を優先している」からこそ、余裕がない中でも贈与やオフ会など積極的儀礼を優先しており、それが世間一般から見た時の不思議さ=謎へとつながっているのではないかと思いました。


かとうさんの価値観

ある人物の行動を理解するためには、その人の判断基準となる価値観を知ることが大事だと僕は考えています。そのためにかとうさんに質問しました。

「かとうさんにとって、やらないほうがいいことはありますか?」

その質問に対する回答は、次のような内容でした。

「私には、やらないほうがいいと思ったことはありません。何が起きても『それでよかった。そうなるということを知ることができた。全てのことはやったほうがよかったことなのだ。』と思うようにしています。もし嫌だと思ったことがあったとしても、眠れば忘れます。だから、今まで生きてきて後悔したことはありません。」

ここまでスラスラと言っていた訳ではなかったと思いますが、要約すると、このような内容でした。

この答えを聞いたとき、「なんて強靭なメンタルなのだろう。自分は全然、敵わないような気がする。何か学ぶ姿勢がある。後悔してばかりだったし、「あれはやらないほうがいいことだった」と一人反省会をするのが常だったけれども、疲れたときは眠って忘れて立ち直るスタイルを真似してみたい」と率直に思いました。

要するに、僕のような外から見たかとうさんは、資本主義社会や人間関係のタブーに苦しむこともあるけど、それでも良くなる道を模索しているように見えていたけど、それは表面的な理解である。そもそも本人は真の意味での禁忌=タブーのような価値観ではなく、主体的・積極的・能動的な価値観で生きている。もし仮に客観的に見て苦しんでいるように思われたとしても、それを当人がどう捉えているかでしかなく周りがハラハラしても仕方ない。

社会が決めた禁忌=タブーに対して、それが重大な問題につながるのでない場合、消極的儀礼と積極的儀礼が葛藤したとき、積極的儀礼を優先するのも一つの生き方ではないかと感じたのでした。かとうさんは社会に背を向けているわけではなく、労働をし、儀礼をし、遅れたとしても支払いを行うなど社会生活から完全に逸脱しているわけではないからこそ、その積極的儀礼を可能な限り最大化する行動量が読書会で注目されているのだと思いました。


儀礼の二重の意味

かとうさんがのめり込んだ「儀礼」はとても興味深いものです。

上で紹介した「儀式論」でも、儀式は冠婚葬祭による同級生や友人・知人と顔を合わせるといった文化的な機能も含めた、人間と文化が存続し続ける、極めて重大な意義があると繰り返し説かれていました。

つまり、儀礼は、「やったほうがいいこと」というレベルではなく、人が「やらなければならないこと」というわけです。

もし個人の生活が経済的に不安定な状況で、経済を最優先して、儀礼を全くしないことにしたら、今ある人間関係が遠ざかり、一人でいることが増えて変な話などに騙されても周りから指摘されないような、リスクがより高まる状況になってしまうのではないでしょうか。また、冠婚葬祭に限らず、人が集まって共食したり、雑談するといった、社会性の根本につながるような、人と人との出会いが少なくなることで、楽しみの少ない、張りのない生活になったり、自分の好きな活動に対するやる気も減るのではないでしょうか。

儀礼は、人間・人類・社会に関わるマクロな意義と、個人の人生の基盤へとつながるミクロの意義が二重に存在します。

経済的な理由により儀礼をなくすことが結果的に社会で生きる基礎を失い、結果的に経済的な苦境へとますます近づく危険を引き起こしかねない点で、多少のリソース不足も気にせず前のめりに行動しているかとうさんの儀礼は実は長期的な観点からすれば、経済的な意味にもつながるのではないかとも思いました。


まだ残り続けるかとうさんの謎

儀礼という切り口でかとうさんの行動を分析してみました。

確かにいくつかの行動の背後にどのような価値観があるのか、対話を通じて理解が深まった気はしました。

それでも、人間を完全に理解することは到底できないと僕は考えています。

かとうさんの謎もまだ残っています。

例えば、かとうさんはアニメや映画をたくさん見ているのですが、どうやら見た映像をかなり正確に記憶しており、映画のタイトルのようなトリガーを聞けば、その映画を脳内で再生したり逆再生したりできる能力があることを本人から聞きました。

サヴァン症候群というわけではないらしいのですが、それに近い記憶能力があるのではないかと推測されます。

サヴァンのような映像の脳内再生能力と儀礼が関係しているのではないかと仮説も立てていましたが、これは僕自身は体験したことがないので、正確に理解することができませんでした。

本当にその能力があるかを知りたくて、最初のオフ会の時期にかとうさんが見ていた「映画 Winny」のストーリーについて、半年ぶりに同じ質問と感想を求めました。

すると、最初のオフ会と最近に行ったオフ会で、映画のストーリー解説と、感想の内容が、ほとんど一言一句同じような回答で僕は素朴に驚きました。

その能力が何かの役に立つのか、太陽贈与(無償で提供し続けられる贈与、例えば一緒に映画館に行くとストーリーをずっと覚えていて感想を共有しやすいなど)につながるだろうかとも考えましたが、ニッチな能力すぎるので全然アイデアが自分には思いつきませんでした(思いついた方はかとうさんにアイデアを贈与すると良いかもしれません)。

いろんな謎のあるかとうさんの行動原理の「解明」をこれからも続けていきたいと思ったのでした。


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