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眠れる虎 成瀬正虎伝を始めるにあたって…

財団にある掛軸の中に、私のお気に入りで「眠れる虎」が描かれている掛軸がある。この掛軸の虎の姿を見るたびに、私は「2代正虎」を思い出す。
彼は「徳川家臣団随一の忠義の臣」と呼ばれた、初代正成の長男だ。彼は珍しく、正室の生んだ子供だ。正成には、記録上側室はいない。だから立場を考えると、彼はすごく大切に、育てられても良い人物だ。ところが幼い時に、生母を駿府で亡くしてしまうところから、不幸が始まった。そして彼は、長男としては、波乱の生涯を歩むことに、なるのである。

彼の御伝を見ると、優秀な弟の存在から、父の正成はその弟に家督を継がせたかったらしい。それが原因で、正成はかなり正虎にあたってきたように思われ、正虎は苦労して生きた人のようにも思われる。しかし、兄弟仲は良かったようだ。
また彼の遺品を見ると、正虎はこの時代には珍しく、どうも武家のしきたりにこだわらずに、自由な生き方をしていた人のように見える。そこの部分は、父正成も、当時人の恨みを買わない人と記録に書かれていて、それを考えると、正虎はその面では、父譲りのところがあったような気もする。

彼が嫡男になるためには、神君公が関わっている。神君公は長子継承を旨とした。だから側近の正成が、そうしないことを許さず、長子の正虎に家督を譲るように、自ら正成を諭したように思われる。もしかしたら、正虎の良さを一番わかっていたのは、神君公であったかもしれないと、私は信じているのだ。
また徳川家臣団の家にもかかわらず、正虎はキリシタンであったとも言われている。彼の残したものの1つにキリシタン灯籠と呼ばれるものもある。また、彼所有の刀の鍔は、十字に切られていたと言われている。しかし、彼に信仰はあったように見えない。
また菩提寺に残る絵姿は、かの有名な幕府ご用絵師の、狩野探幽が書いたものだ。探幽の残した掛軸の中に、武者姿は少ない。なぜ狩野探幽が正虎の絵姿を、それも3幅対で書いたのか…正虎は、最後の傾奇者であったとも言われている。だからそれらは、正虎の人柄を表している遺品だと思われる。

正虎は、なさぬ仲の正成の後室となった本多正信の弟、本多正重の娘の計らいより、神君公が認めた嫡男となり、成瀬家の家督を継ぐことになったようだ。だからどうもこの母に、正虎は頭が上がらなかったらしい。この辺も戦国武将の家に似つかわしくない逸話だ。義理の祖父の本多正重は、武勇の人物と言われている。その娘だから、きっと怖かったに決まっている。しかし彼女の子供に、男子はいない。4歳の時から、一緒なのだ、自身が生んだ子のように、正虎をものすごく可愛がっていたのだ。
また、宇都宮城の吊り天井事件で改易し、佐竹家のお預けになった本多正純の孫の次男を、犬山に囲い育てて、本多家の再興を計り、彼の死後ではあるが、本多家の再興を達成しているところなどは、あの厳しい戦国時代を生きた武将とは、思えない。
ここから考えると、正虎という人物は、家門を守ったというより、江戸時代初期、徳川家が強い社会の中で、人情や義理を重んじ、ともすれば徳川家を敵に回す、そんな大胆な生き方をした人だったのではないか?

今を考えると、正虎の生き方は、私の理想に近い。傾奇者らしく、父が私に残した遺言の「粋に生きた」人だと思う。
江戸時代初期に、こんなに面白い自由な人がいたのだから「曽水に生きて」ではなく、彼1人のタイトルをつけて、記録を残していきたいと、私は思うのである。
今静かに眠っている歴代の墓の中で、一番人気者は正虎と言われていて、たまに知らない内に墓前に花が手向けられていることがある。

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