見出し画像

連続講座「面とはどんなアトリエか?」第一回 事前メモ① 背景

2023年1月27日(金)に、映画監督の七里圭さんと、いぬのせなか座第一期メンバーの鈴木一平、そして私(山本浩貴)の3人で、連続講座「面とはどんなアトリエか?」というイベントをおこないます。
連続講座という名のとおり、今回が初回で、以降複数回つづいていく予定です。

上のページに飛んでいただくと、私の書いた概要文があります。大きな枠組みに関してはこちらを読んでいただくのが早いですが、ただ、大きすぎていったいどういう内容になるのか、そもそもなぜ七里さんとやるのかなど、把握が難しいかとも思うので、3回ほどに分けて諸々をメモしておきたいと思います。

背景① 共同での仕事

鈴木・山本は、七里さんとともに、2019年より複数回イベントを行なってきました。
いちばん最初は、「七里圭新作上演『清掃する女』プレ・イベント~「音から作る映画」からシネマの再創造へ~」(2019年7月31日 早稲田小劇場どらま館)。2014年から2018年にかけて、上演(13本)とそのドキュメントを含んだ映画制作(8本)を往復しつつ、映画における音について問うたプロジェクト「音から作る映画」について振り返るという企画でした。
その日の山本の発表資料は以下でご覧いただけます。

その後、
七里圭「清掃する女」アフタートークイベント」(2019年9月5日 早稲田小劇場どらま館)、
七里圭「まつりの技法 ~映画から身体表現を立ち上げるワークショップとトーク~」(第2部トーク 七里圭+鈴木一平+山本浩貴「振付の奪取、主観の位置」出演 2020年2月2日 美学校)、
七里圭『清掃する女』CG! 上映パフォーマンス ポスト・トーク: 土居伸彰×五所純子×鈴木一平+山本浩貴×早川翔人×七里圭」(2021年10月16日 SCOOL)
と、継続して七里さんの仕事に関わってきました。

また、『清掃する女』記録集には、公演当日パンフレット掲載テクスト「主観の位置、由来の場」のほか、同作をめぐる鈴木一平との対談原稿も掲載されました。
加えて直近では、七里圭さんの新作映画『ピアニストを待ちながら』に、原案協力(山本)/劇中戯曲(鈴木)で関わりました。

自分(山本)は、上の資料でも指摘しているように、七里さんの仕事に対して、映画と上演、記録と一回性(レイアウトと即興)、映像と音、従属と自由意志といった、いくつもの二項対立を撹拌しながらいささか過剰な質感を立ち上げていくその手付きに関心をもっています。
またそれが、自らの選んだ表現形式である「映画」そのものの変化をめぐる問いのかたちを取ることにも、共感とともに関心をいだいています。
映画のことを考えようとしてなぜ舞台作品が作られるのか。映像が投影される布を人体が触れるとはどういうことなのか。音が画面のなかに食い込む(あるいはその逆)とはいかなる事態か。いずれも「面」にかかわる問題として確認しうるでしょう。

背景② 連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」

七里さんの、「映画」の変化を問う姿勢は、プロジェクト「音から作る映画」だけでなく、トークイベントのかたちでも示されてきました。それが、連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」です。

「映画が“映画のようなもの”にすり替わっているような気がする」という映画監督・七里圭のあいまいな違和感を出発点に、2014年2月から続いている連続講座。 毎回、識者を迎えて七里の疑問、掲げたテーマに沿って講義、討議しながら、デジタル化された映画がどこへ向かおうとしているか、あるいは映画とはそもそもどこから到来したか、過去と未来を射程に入れながら、映画とは何かを、この現在において考察する機会としている。

http://keishichiri.com/jp/lecture/

今回の企画も、この連続講座の延長線上で計画されました。
打ち合わせでの七里さんの言葉を引けば、映画が何か別のものに変化しているという直感が「映画以内、映画以後、映画辺境」の発端だったが、その後、映画だけでなく他の表現ジャンルに関しても何かが根本的に変わってしまっているのではないかと感じている、とのこと。
これに対するいぬのせなか座からの応答が、第一回の軸のひとつになるかと思います(そもそも「面とはどんなアトリエか?」というタイトル自体が、そのひとつである)。

※追記
連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」のテキストアーカイブは、七里さんのnoteにて公開されています!

背景③ 連続講座「言語表現を酷使する(ための)レイアウト」

いぬのせなか座もまた、自分らの選んできた言語表現に対して、その組成の変化を問うイベントを行なってきました。2018年に開始し計4回実施された連続講座「言語表現を酷使する(ための)レイアウト」は、その中心のひとつです。
言語表現はずっと以前の作品も直近の作品もいずれも同じように文字や声であらわされ、故に何ら変化を起こしていないようにも見える。しかし、その受け取り方、社会における位置づけ、そして制作プロセスは、大幅に変化してきているだろう。
その変化をつぶさに見つめるのはもちろん、何より今、言語表現を自らの生の根幹に関わる表現形式として選び、実行するとはどういうことなのか。過去の歴史はいかなるかたちでいま「使える」ものとなっているのか。いぬのせなか座は継続的に検討してきました。
今回の「面とはどんなアトリエか?」でも、現代詩の歴史が「面」というものといかなる関わりをもってきたか(現代詩の歴史が「面」と切っても切れない関係にあったこと)、面=表層とその手前/奥をめぐる(批評的/制作的)アプローチの歴史的推移などが、映画などにおける「画面」の変化と並行して語られることになるでしょう。

背景④ 『背 吉増剛造×空間現代』

今回の企画を行なうきっかけのひとつに、七里さんの新作映画『背 吉増剛造×空間現代』がありました。

今や特権的な詩人のひとりとみなされることの多い吉増剛造ですが、その特権ゆえに、非常に語りづらい存在となっているようにも感じられます。
かれの詩/パフォーマンスが色濃くもつレイアウトへの意識は、果たしてどのような内実を備えているものなのか。そもそもかれがなぜ「詩人」として、今のような制作を行なうに到ったのか。吉増と空間現代のパフォーマンスのドキュメントをもとに制作された『背 吉増剛造×空間現代』には、何が記録され、なぜそこで「面」が主題となっているのか。
そのように3人で議論するなかで、山本から不意に提示されたのが「面とはどんなアトリエか?」という問いだったのでした。

※追記
来月2月25日には、京都にて、吉増剛造さんと、作曲家の檜垣智也さん、そして七里さんによる上演「電子音響詩劇「石巻ハ、ハジメテノ、紙ノ声、……」試演」が予定されています。
『背』を踏まえつつ、さらなる発展が期待されます。

「面とはどんなアトリエか?」とはどんな問いか?

今回のイベントに直結する背景としては、以上のようなものがあります。
次回(たぶん明日)は、イベント当日の流れについて書きたいと思います。
実際のところ、なんで「面とはどんなアトリエか?」という問いなの?という問いが多くのひとに燻っているような気がするのですが、そのあたりも含めて、もう少し踏み込んでいきます。

あらためまして、イベントの詳細は以下です。

※『背 吉増剛造×空間現代』の上映は17:30からと、平日にしてはけっこう早めですが、こちらをご覧になられなくても、19:20からのトークのみの参加が可能です。トーク内でも『背』の映像を流しつつ分析するような時間が予定されていますので、気兼ねなくご予約ください。

いぬのせなか座・山本浩貴


→次回


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?