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百三十話 命令

 白々しらじらと闇夜が明け始める。
 トーチカ群がある麓に辿り着いた決死隊――山の斜面を今、這うように登り始めている。
 その様子を皆、息を潜めて見守る。

 決死隊は、攻撃開始の四時までには、トーチカ群に飛び込める付近にいなけらばならない。それに備えて、浅井らの中隊も四一式山砲の発射準備を完了させていた。
 一発勝負ゆえ、検閲の時と異なり直接照準。砲の眼鏡を扱うのは、無論一期検閲でやらかした浅井ではなく、班長・田村軍曹だ。また、残余の兵は、吉野中隊長の号令を合図に、全員突撃することになっている。
 そして、浅井もその一人。小銃の先端に銃剣を付け、腕時計の針を見ながら命令を待って居た。

 山砲中隊の歩兵は、一般の歩兵と違い、敵の攻撃から自分の中隊を守ることを主な役目としている。そのため、今回のように野戦で友軍と総攻撃に加わることは少ない。しかし、それがために、皆己自身の戦闘心が極限まで達していた。
 無論、浅井にとっても望むところ。モチベMAX、これぞ帝國陸軍、男子の本懐である。しかも、好都合なことに、この間の行軍停滞で、足の肉刺まめの出血が治まっている。厚く固い瘡蓋かさぶたが被さり、浅井を悩ますものは一先ず消えていた。

 敵陣山頂を登る友軍決死小隊を見詰める。
 浅井は、隣に潜む寺尾兵長に言った。

 「見ているとこっちも胸が痛くなってきますね」
 「俺もまったく同じだ」

 こちら側で共に見ている友軍は、皆同じ気持ちだろう。
 夜が明け、敵は間断なく打ち上げていた照明弾を止めた。

 その刹那、トーチカの一つから、人影が現れる。
 敵の一人が、農夫が被る菅笠すががさを頭に着けて、徘徊していた。
 決死隊に気付いたか?!
 一瞬、動揺が走った。
 敵兵が、こっちを向いて止まる。
 
 浅井は、寺尾兵長を見た。
 「小便をしに出て来ているんだ」
 兵長が言う。
 しかし、敵兵はどこか様子がおかしい。確かに小便を終えたようではあったが、まだこちらを向いて立っているのだ。
 果ては気付いたか!
 「煙草タバコを喫い始めているんだ」
 浅井の只ならぬ動揺を察して、寺尾兵長が謂った。

 山の斜面、友軍決死隊は、ブッシュの陰まで辿り着き、息を潜めている。小便煙草兵との距離は、ものの三十メートルもない。
 決死隊は、背嚢を下ろし、迷彩物も外し、ついにはトーチカ群に近付いている。

 双方が刻一刻と接近、遭遇しつつある状況が、手に取るように見て取れる。浅井は、友軍が敵に気付かれやしまいかと気が気ではない。落ちたら死ぬ綱渡りでもしているような気分になった。
 胸に痛い。強烈な苦しみを感じる。
 もう誰の目にも戦闘の直前、秒読み段階であることは明らかだ。

 早く開戦の号令を!
 先に見つかってからでは遅い
 まだか、まだなのか!

 生きるか死ぬか、自らの生命はおろか、全軍の行く末が懸かっている。
 誰もが皆、祈るような思いで、命令を待っていた。

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