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ええかっこしい(伯父さんの思い出)

父とトラックで大型ごみを業者のところに持ちこんだ。
荷おろしを手伝っていると、業者のお兄さんが「これ、ブランド家具ですよね。捨てるんならいただいていいですか?」といてきた。

伯父おじの遺品の書き物机のことだった。私が長らく使っていたが、大きな書斎机を買ったので、置き場所に困って処分することにしたものだ。

「ぜひもらってください」と二つ返事で答えたが、机は運びやすいよう一部分解しており、ねじをすでにごみに出していた。譲り渡すのはあきらめざるを得なかった。

伯父の遺品はブランド品と高級家具ばかりだった。母はたびたび伯父のことを、「お兄さんは〝ええかっこしい〟じゃけえ」と言っていた。

私のなかの伯父の記憶は、お年玉をたくさんもらったことと、広島生まれなのに関西弁を話していたことだ。

伯父は広島の公立高校を出ると、関西の某有名私大の法科に進んだ。

弁護士を目指していたはずが、派手に遊びまわるようになり、大学を2年留年。
広島から祖父母が駆けつけると、下宿で「飲み屋の女」と寝ていたという。手切れ金を渡して別れてもらったが、息子は家財をすべて女にあげてしまった。

留年のせいで希望の大手証券会社を受けられず、伯父は大阪の清掃サービスの会社に就職した。
無名の小さな会社だったが、その後、急成長して大企業になった。

伯父は資産家の令嬢と結婚し、3人の娘をもうけた。奥さんはKGボーイ(慶応ボーイみたいなもの)にあこがれて伯父と結婚したらしい。

営業マンだった伯父は、とんとん拍子に出世して部長になった。役員まであと一歩というところで、派閥はばつ争いに敗れ、新潟に左遷させんされた。

このころから伯父の人生の歯車が狂いはじめる。
新潟支社長になり、単身赴任ふにんしていたが、連日の接待がたたって出張先の大阪で倒れた。伯父が49歳のときで、脳梗塞のうこうそくで右半身不随ふずいになった。

会社を辞め、伯父のリハビリ生活がはじまる。転院をくり返し、島根での温泉療養を経て、広島の実家に帰ってきた。このころ離婚をして、3人の娘は相続のため妻の父親の養子になった。

私は伯父とひとつ屋根の下で暮らすことになった。
わが家は2世帯住宅で、1階で祖母と伯父が生活し(すでに祖父は亡くなっていた)、2階で私の家族が生活していた。当時、私は予備校生だった。

その夜、私はテレビでお気に入りの歴史番組を観ていた。
CMに入ったので、1階の伯父のところにインターネットのことを訊きにいった。伯父がパソコンを持ってきたので、家でインターネットができるかと思ったのだ。

1階におりると、伯父も居間で同じテレビを観ており、こたつの上にはノートパソコンが置いてあった。CM中にちょっと話を訊くつもりが――年老いた祖母と二人きりでいろいろたまっていたのだろう――伯父は2時間近く一方的にしゃべりつづけた。
受験で余裕のなかった私は、伯父と距離をおくようになった。

伯父は1日中部屋にこもるようになり、祖母にあたりはじめた。
そんな状態が1年近くつづき、私は伯父のことを薄気味わるく感じていた。父が自分の会社に伯父を雇おうとしたが、大企業の一線でやっていたプライドからか断られた。

退職金を元手に雀荘じゃんそうをはじめると聞いていたが、実際にはじめたのは訪問介護の会社だった。

当時、介護保険制度がスタートしたばかりで、介護事業は新しい産業として注目されていた。
伯父は日夜部屋にこもって、介護事業の研究をしていたのだ。

伯父の会社はみるみる大きくなり、事業所の数をふやしていった。毎月、社員全員をホテルのレストランに連れていくくらい羽振りはよかったようだ。

伯父は実家を出て、高級マンションで暮らしはじめた。お世話をする女性もいるようだった。
他県に進出しようかというころ、伯父ががんに侵されていることが発覚した。

伯父が亡くなったと母からメールで知らされたとき、私は東京の大学に通っていた。
ちょうど試験期間中で、通夜つやにも告別式にも参列できなかった。50代で亡くなった伯父の無念を思うと胸がつまった。

夏休み、実家に帰省したとき、祖母から伯父の最期を聞かされた。モルヒネを拒否し、長時間苦しみながら息を引き取ったという。

連絡を入れたが、娘たちは見舞いにも葬式にも現れなかった。仕事がいそがしくて家庭をかえりみなかったのかもしれない。

伯父の葬式には多くの仕事関係や元同僚の人たちが押しよせた。
生前いかによくしてもらったか、どんなにお世話になったかを、祖母は口々に言われたという。

「帰ってきてからはようけつらい目にわされたが、よその人には好かれとったんじゃのう。ええかっこしいじゃけえ」と祖母は涙を流した。

伯父の会社は、税理士と共謀きょうぼうした新しい社長に乗っ取られたあげく解散した。
わが家には伯父の高価な遺品だけが残された。私のもとには書き物机がやってきた。

天板をなでると凹凸おうとつがあり、光を当てると無数の不格好な文字のあとが見えた。右半身不随の伯父が懸命に左手で字を練習したあとだった。
「ええかっこしい」をつらぬいた伯父の陰の努力をかいま見た気がした。

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