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イラストレーターきびのあやとらができるまで

初めまして。漫画家でイラストレーターのきびのあやとらと申します。
ウェブメディアをはじめ企業広告から個人の似顔絵まで、幅広くお仕事させてもらっています。

現在43歳。結構キャリアは長いのですが、一直線に絵の道を突き進んでいた訳ではなく、ここに落ち着くまで色々と遠回りしてきました。ちゃんとした美術教育はほとんど受けていません。
一時はそれがコンプレックスだったりもしましたが、今はその回り道も全てひっくるめたのが私の持ち味であり魅力だと思えるようになり、経歴等は包み隠さずドンドン出していこう!という気持ちです。

案外ありふれているかもしれませんが〈きびのあやとらができるまで〉をご覧いただけると幸いです!

第一章 希少な岡山産ギャル、アメ村で出会う

1980年岡山県生まれ。(ペンネームの「きびの」は吉備から取りました)
子供の頃から絵や漫画を描くことが大好きだったのですが、高校生でコギャルに目覚めたため全リソースがファッションに喰われ絵心が消失。
いつか渋谷109に行くことを夢見るも、進学先は東京ではなく関西の芸術短大。の、美術科。を完全スルーし広報科へ。なんとなく取材とか面白そうだし雑誌とか作る仕事ができたらいいな〜と頭の隅でぼんやり思いながら、何よりもギャルファッションコーデに心血を注ぐ毎日。当時は本当に服と髪型とメイクのことしか考えておらず、後輩につけられたあだ名「カリスマ先輩」も結構気に入っていました。

ある日、いつものようにアメ村を厚底サンダルで闊歩していると、いかにも怪しい男たちに声をかけられました。その正体は、当時愛読していたギャル雑誌のストリートスナップ撮影隊!待ってましたとばかりにバシャバシャ撮ってもらった後「雑誌の仕事したいんでなんかやらせて」とついでにお願いしてみたらあっさり関西のギャル雑誌編集部につなげてもらい、アルバイトできることに。

キッカケはギャル雑誌のストリートスナップ

一応編集補助という形で働きはじめたのですが約1年後には社長が飛んで潰れる零細極悪会社だったため常に人手が足らず、何やかや押しつけられる雑用に紛れて「絵とか描けるならお便りページの挿絵描いて」と無茶振りされ、生まれて初めてフォトショを使ってイラストを描くことに。
それがこちら↓

初めての雑誌の挿絵(線画はアナログ、着色はフォトショで)

色々荒いけど今見ても面白いし、描くたび編集部のみんながめちゃくちゃ爆笑してくれて「ああそうだ、絵を描くって面白くて気持ち良いんだった!」とギャル化する前のお絵描きキッズだった頃の気持ちを思い出したのでした。今思えばこれが今の私に続く、全ての始まりだったのです。

第二章 青春のイラストライター時代

イラストも楽しい、企画考えるのも楽しい、文章書くのも楽しい。私いきなり天職引いちゃった??と思っていたのですが、やはりそんなにうまくはいかないもので。短大卒業後そのまま就職した会社は3ヶ月後に潰れ、編集部は解散、雑誌は廃刊。同じタイミングで実家の犬が亡くなるし、船場センタービルを号泣しながら全力疾走したい気分でした。

たっぷり落ち込んだら「また雑誌を作る仕事をしたいなあ」と思えたので、R社の媒体専門のDTP制作会社で進行管理(※)に応募し採用をいただく。
思っていた雑誌作りとは少し違ったのですが、イラレやフォトショ(あとクォーク。懐かしすぎる)の操作と、情報整理力・段取り力・交渉力・スケジュール調整力が嫌でも磨かれる進行管理という仕事での経験はフリーランスになってから一番役立ってくれました。

※版元から依頼された原稿をmacオペレーターや校正に通し完版(指示が全て反映され修正が一切ない状態)にして、印刷データに仕上げていくのが制作会社の仕事。進行管理は媒体全体の進行状況を常に把握しスケジュールに合わせて管理・調整する立場。

不安定すぎる編集部から盤石の大手出版グループ企業に移り安泰かと思いきや、21歳の私にはいかんせん刺激が少なすぎました。編集ページ(巻頭の読み物ページ)の入稿データを確認しながら「企画して自分で取材行って記事書いて…やっぱりこういうことがやりたい!」と、編集プロダクションへの転職を決めました。当時少しずつイラストの仕事ももらえていたので、「文章もイラストも漫画も描けるイラストライターでっせ!(※)」と強引に売り込んでプロダクション入りを果たしました。
※写真も撮れるライターは「カメライター」。言ったもん勝ちな時代

「イラストライター」として活動していた頃の実績(全て紙媒体)

リサーチに取材に原稿にレセプション…少し眠ったらまたリサーチ取材原稿…忙しすぎて何やってるか自分でもわからなくなるし、周りは変な人ばっかりだし、でもとにかく毎日が濃密で賑やかで、間違いなく青春でした。

ですが物欲まみれの20代。「もっともっとお金が欲しい!」と思い始め、当時はまだまだ割りが良かった派遣で広告代理店の制作担当を1年ほどやり、次は「安定が欲しい!」と思い、制作会社に正社員のコピーライターとして就職しました。
ずっと雑誌(編集)に関わってきた身としては広告を手がけるのはどこか誇らしさのようなものがあり、優秀な先輩たちとブレストや社内コンペが出来る環境は貴重で刺激的でした。

ところが夢中で走り続けた反動か体力と精神の限界が来てしまい、同時に色々なトラブルがあり実家に帰ることになりました。
この時、25歳。

第三章 クリエイティブの喜びを知る、デザイナー時代

実家にてのんびりだらだら都会の毒素を抜いたのち、グラフィックデザイナーの父の会社で働くことに。
結婚式の招待状や席次表、結婚報告ハガキなどブライダルペーパーアイテムのオーダーメイドが主な仕事。当時はまだ個人の方がプロにデザインを依頼できるサービスは珍く、しかもスマホがない時代のネット注文。
それでもこだわり派の新郎新婦の執念は凄まじく、「ゼロからデザインしてくれるのはここしかない!」と弊社を探し当ててくれて依頼はひっきりなしでした。
社長兼師匠の父より「この依頼、任せた」といきなり振られて最初は大いに悩みましたが、何となくコツを掴めてからはもう楽しくて。何をしても頭の中でデザインのことばかり考えていました。

これまでの私は自分の仕事を世に出すことが最上の喜びだったのですが、納品するたびに温かいお礼のメールをいただき(引き出物をいただくことも多々あり)少しずつ考えが変わっていきました。「もしかしたらクリエイティブの最大の成果って、誰かに感謝されることなのかも」と。
私こんなことできちゃいます!こんなアイデア出せます!という誇示よりも、相手が何を求めているのか、どうすれば喜んでもらえるのか、そういう寄り添いが大事。という自分なりの気付きというかアンサーを得ました。

2007年に結婚。父からこの事業を引き継ぎ、その後約9年間で100組以上のカップルのペーパーアイテムを手がけました。

オーダーメイドアイテムの一部。本当にたくさん作りました。


第四章 ここにいます!!!!絶叫の育児ブロガー時代

2015年、妊娠しブライダルアイテムの受注を休止。2016年に娘を出産後、1日も早く事業を再開したいと願うも初めての育児にコテンパンにされ、仕事も何もかもママならぬ事態に(ママなのに)。それでも何か作りたい!社会と繋がりたい!ピギャーと発狂寸前だった私が育児漫画を描くようになったのはごく自然な流れでした。何かに取り憑かれたように描いてはsnsにあげることを繰り返していると、次第に読んでくれる人が増えて嬉しいコメントをもらえるように。私の声が届いたことが嬉しくて嬉しくて、ブログの更新が生きがいのようになっていきました。

それまで私にとっての育児は、とても孤独なものでした。
毎日娘を生かすことに必死になって身も心もボロボロなのに、誰も私たちのことを知らない。家の中はいつもぐちゃぐちゃで、夕暮れが近づくと絶望的な気持ちになること。そんな私の気持ちも、この家の中で起きたことは全て誰も知らない。

でも、それを漫画にして発信すれば、沢山の人が知ってくれる。わかるよと共感してくれる。そのおかげで何とか踏み止まれる。
だからsnsやブログで、私ここにいます!と叫び続けていたように思います。

働いていた頃もそれなりにしんどかったり辛いこともありましたが、この時期が間違いなく最もハードでした。そんな限界体験をしたことも、現在の私に少なからず影響しています。

このアカウントでの初投稿noteであり、今もポロポロといいね頂いている漫画がまさにその時代です。


第五章 25年目のリフレイン。痛快イラコン最優秀賞

娘が成長するにつれて時間の余裕が増えると、ぐちょぐちょだった情緒も無事元に戻ってきました。お得意様のご依頼を積極的に受けつつ、ココナラで似顔絵のサービスも始めました。ココナラで個人の方とやりとりするのはブライダル全盛期の頃に通じるものがあり、とても心地よく感じました。
ああ〜コレコレ!こういうのこういうの!が止まりませんでした。

さらに。
育児ネタは減ったもののsnsでの発信はずっと続けており、それがきっかけでウェブメディアでの連載やお仕事のご依頼をいただくことが少しずつ増えていきました。
「きびのあやとら」を名乗り出したのもこの頃です。

そろそろイラストに本腰入れていこうかな…?とふんわり思い始めたのですが…この頃の私はなんかちょっとスカしてるというかオシャレ路線を狙っているフシがあり…というのも「デザイナーなんだから、イラストもハイセンスであるべき」とか思っていたわけなのです。
今となっては「それはそれ」「どう考えても違うだろ目を覚ませ」としか思わないのですが、当時の私にはそういう柔軟さが圧倒的に欠けており、特に誰も求めていない部分の整合性を取ろうと必死だったのです。

そんな時、今後の方向性を決定する、とあるイラストコンテストに出会いました。
挿絵のコンテストなんて珍しいな、挿絵は結構数描いてるしもしかしたら入選できるかも…?と思ったらまさかの最優秀賞をいただいちゃったのです。

これまでどんなイラコンやデザインコンペに出しても箸にも棒にも掛からなかったのに…!めちゃくちゃびっくりでしたが、こんな賞をいただくのは人生初めてのことで大いに舞い上がりました。まさに痛快!
「ああそうだ、絵を描くって面白くて気持ち良いんだった!」と、25年前ギャル雑誌編集部で挿絵を描いた時と全く同じ気持ちになっていました。

おかげでやっと目が覚めました。


第六章 色々搭載!きびのあやとら堂々完成!!!

結局は最初にやったこと(挿絵)に戻ってくるということと、遠回りして身につけてきたスキルは私の仕事のスタイルだったり持ち味や魅力になってくれているということ。
「デザイナーなんだからオシャレなイラストを描かなきゃ行けない」みたいな思い込みは、オリジナリティ確立の妨げでしかないことが分かりすぎました。

ついにきびのあやとらの完成です!
どうですか?素敵でしょ?
仕事ください!!

きびののこれまでの経験が全て、仕様に組み込まれております

以上、本当に長くなってしまいましたが、「私はこういうタッチが描けます」だけでは数多いるイラストレーターさん達と差別化できないかと思い、何から何まで書き連ねてみた次第です。

ここで書ききれなかったお仕事の昔話はこちらのマガジンに追加していけたらと思いますので、よければ是非ご覧ください。


おまけ

エジプト発祥の踊り「ベリーダンス」にどっぷり沼ってもうすぐ5年。

どっぷり沼落ち、沈み続けて約5年。

発表会やショーで定期的にステージに上がるたび、人前でパフォーマンスすることでしか得られないものが高まっているのを感じています。

まず人前で何かするって、それだけで莫大なエネルギーと度胸を要します。
どれだけ本番に向けて一生懸命練習したとしても、ステージに上がっている数分間に出しきれなければ意味がない。逆に経験が浅くても本番で魅力的なパフォーマンスができれば評価が高まり実力が後からついてくる。
このプレッシャーだったり場慣れ感だったりはイラストの仕事にも通じるものがあると思います。

完璧に踊るぞ!と思うと肩に力が入りすぎてうまくいかないし、逆にゆるく構えすぎると何の印象も残せない。思い通りに行かないからこそ面白いし、次こそは!と燃えます。

そういう「場」を重ねていくことは、きっとクリエイティブに何らかの影響をしてくれるものと思うので、仕事以外の場でパフォーマンスはし続けたいと思っています。

頭になんか載せたり(得意)、凄まじく陽気な衣装で踊っています

これもまた、趣味は趣味、仕事は仕事、混ぜるな危険!みたいな思い込みはせず、何かしら趣味と仕事がリンクする瞬間があれば最高だな〜と。

歳を重ねるほどに柔軟になっていけたらと!
できれば死ぬまで踊りたいと思っているので、いつか見にきてくださいね〜


以上、きびのあやとらができるまで。でした!
読んでいただきありがとうございます。

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