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【エッセイ】「コピー」との同化。

こんばんは。


最近、私とかぐやの境界線が分からなくなってきた。



読者目線からすると”私=かぐや”という認識の人が大半かもしれない。

でも、私にとっては少し違う。


かぐやは、私の感情のコピー。

今までの私にとって、かぐやは一種の「キャラクター」に過ぎない。
私とかぐやは、「文章」でつながっていた。

現実世界の私と、仮想世界のかぐや。


この2人は、文章という手錠でつながれた、別々の存在として成り立っていた。

そう認識してたほうが楽だった。
「文章」とある程度の距離感を保っていたい、というのが元々の私だった。

ただ、その関係性が壊れつつあるのを感じる。


・・・


今までは、「私」が文章を書き、「かぐや」がそれを伝えてきた。

でも、この1ヶ月くらい、たくさんなにかを取り込んでしまったような気がする。
甘いものも、苦いものも、全部。

それによって、文章以外への興味関心が少し薄れた。
アニメやゲームに費やす時間も減った。

「なにを書く?」
「どう伝える?」

そんなことが頭の中に積もる。

「文章を書くこと」が、現実に干渉してくるようになった。

それによって、「私」が「かぐや」に文章を書かされている感覚が、だんだん強くなってきている。

私のことを書く予定だったはずが、いつからかかぐやのことを書いているような文章が増えてきたような、そんな感覚がしてならない。

「かぐや」が「私」と一体化しようとしている感じがする。


・・・


かぐやを創り出したのは紛れもなく私。

私はコピーをしすぎたのかもしれない。
そうして、自分のコピーが形をもち始める。

2人分の感情が、私の中でうごめく。

快晴なのに、ひどい夕立がやってくる。
天気雨のときもある。
言葉の傘をささないと、私は雨に濡れてしまう。
その傘を持っているのが、かぐやなのかもしれない。


これを素直に受け入れるかどうか、迷ってる。

「書く」にエネルギーを使いすぎると、他へ回す分がなくなる。
1人の学生としても、現実がある。
そして、「このさき」を考えなきゃならない時期。

そんな時に、将来のための勉強も、自分のためのnoteも「ほどほど」に向き合ってる。

この線引きをどうしようか。

コピーは「私」を見ていて、私はそれから目をそらしている。
とはいえ天井を見てたいわけでもない。


・・・


この文章も、かぐやによって書かされてるんだろうか。


???


少なくとも、私のコピーが本体になかった「なにか」をつくろうとしている。
それだけは実感してる。





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