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憲法も学びも構造は同じで活用するから意味がある No.1100

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2024年1月7日 「DayOne日記」No.1100
本ブログは、何か新しいことを始めるきっかけになることを書いていきます。365日、1日も欠かさず発信します。
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おはようございます。

昨日に続いて、
今日も日経新聞で現在連載している
「私の履歴書」武藤敏郎さんの話からです。

それは、
武藤さんが学生時代に
「憲法と裁判官 自由の証人たち」という本を
手に取り、それを読んだ時に
東大法学部の志望を決意された時の話です。

こんな文章です。

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「我々は、憲法のもとにある。
 けれども、憲法とは、裁判官が
 これを憲法だというものにほかならない」

書き出しは、
30代のベイ連邦最高裁長官チャールズ・
エヴァンズ・ヒューズのこの言葉だ。

憲法の条文は、裁判官という人間が
現実に適用して初めて生きてくるという。

多数派の判決と少数意見を並べて
論理をたどると、どちらもなるほどと思える。

同じ法律論でも、
判事が保守かリベラルかで
判決が大きく分かれることに驚いた。

無機乾燥だと
思い込んでいた法律の人間臭さ、
意外な面白さを気づかせてくれた。

ーーーーーーーーー

という文章です。

どれだけ、
言葉で憲法を定めても、それを使わないと
何の意味もない、ということ。

つまり、
裁判官もいう人が介在することで
憲法も生きたものになるのです。

そして、
何よりも同じ言葉や文脈であっても
裁判官がどのように解釈するのか、それに
よって、判断も行動も変化するのです。

この話を読んで、
学びも同じだと感じるのです。

どれだけ知識をインプットしても
アウトプットしないと、
それは何の意味もないものになるのです。

だから、
タイムマネジメントの本を読んで知識を得ても
それを現実に実践しなけば、憲法の同じように
使われないものになるのです。

そう思うと、
言葉をどのように扱うのか、
生かすも殺すも自分次第。

そして、
学びを意味あるものに変えていくには
言葉を使いこなす。

それは、
知識を知恵に変えていく、という事。

もっというなら、
「学び」の定義を、知っているではなく
使っている、使いこなしているに定める。

それくらい感覚でいたいものです。

勉強だけでなく、実践ありき。
アウトプットを前提としたインプット。

そういった観点も踏まえ
学びの捉え方を今一度考えたいものです。

それでは、皆さん。
本日も良い一日をお過ごしください。

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