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おじさんの自撮りはなぜ痛いのか?嵐・二宮和也の自撮りに見る、自己愛と社会的成熟の問題

嵐の二宮和也が銀髪自撮りをアイコンにして、「痛いおじさん」と言われているというネットニュースが流れてきた。酷い話だ。

日本の男性アイドルの中でもトップクラスの人気を誇る二宮が、自撮りをあげただけで、なぜ痛いと言われなければいけないのか。ビジュアルの問題だろうか。だが、該当の自撮りを見ても40歳とは思えないほどのイケメンだ。

たしかに20代のイケメンと比べると、おじさん感は否めないだろう。加工などもしていないナチュラルな写真なので、年齢による老けはより顕著に見える。だが、40歳の二宮の写真と知らずに見れば、何も痛いと感じる部分はないように思える。

おそらく、痛いと言われているのは、自撮りのビジュアルが"キモい"からではない。「40歳の良い歳したおじさん」が自撮りをあげることが痛いのだ。でも、なぜ痛いのだろうか。ただ、イケメンが自撮りを上げているだけなのに。考えてみると次のような理由があるように思う。

自撮り=自己愛の現れ。おじさんなのに、自己愛まみれなのは未成熟の証?

自分だけが写る自撮りというのは、少なくとも日本ではナルシシズムの現れと見られる。とりわけ男性の自撮りには、非常に厳しい目が向けられる。

マッチングアプリの写真に対して、自撮りをあげている男性は「痛い」「キモい」「ナルシスト」などと散々な批判を女性のあいだでされているのを耳にしたことがある。

そうした判断がされることを見越して、入会時の推奨プロフィール画像の中で、自撮りではなく、他撮りを推奨する説明が書かれているくらいだ。

自撮り写真を見ると、決め顔をして自分で自分を撮る、という撮影の様子を想像してしまう。どうしたって、自撮り写真には本人のナルシシズムが写ってしまうのだ。

これが10〜20代のイケメンであれば、おそらくそれほど痛いとは言われない。問題はおじさんのナルシシズム、つまり自己愛が見え隠れすることにあるように思う。

他者や家族への愛を持ってこそ成熟した大人だ。自己愛にまみれているなんて大人のやることではない。私たちはこうした認識を無意識的に持っているのではないだろうか。

社会的・経済的に成熟していなければいけないはずの大人の男が、自己愛まみれの自撮り写真をあげるということが、未成熟な人間に見えて「痛い」と思うのではないか。

こう考えると、まだ未成熟で自己愛まみれでも許される10代〜20代が自撮りをあげることは痛くなくて、家族や他者への愛を持つべき大人が、自己愛の証である自撮りをあげることは痛いとされるのも説明できる。

さらには、男性性と女性性のジェンダーバイアスの問題も含まれていそうだ。つまり、男性は社会的に成熟しているべきで、女性はその限りではない、といったタイプの問題。

女性の自撮り以上に、男性の自撮りへの風当たりが強いということは、ジェンダーバイアスが無意識下で判断基準として存在して、それによって「おじさんの自撮りは痛い」という言葉として現れている、と考えられるのではないだろうか。

おじさんが自己愛にまみれて、何が悪い?

以上のことからわかるように、「おじさんの自撮りは痛い」と言われるのは、年齢と男性であることによる「成熟しなければならない」という社会的要求の現れだ。

二宮と4歳しか変わらない私からすると、そんな理不尽なアンコンシャスバイアスのせいで、痛いとかキモいとか言われるのは納得がいかない。

おじさんが自己愛にまみれて、何が悪いのか?

二宮には家族がいる。2人の子どもを育てる父親なのだ。十分に家族への愛を注ぐ成熟した大人としての責任を果たしている。そのうえ、アイドルとして多くのファンに愛を注いでいる。たとえ自己愛にまみれていたとしても、社会的に成熟した大人なのだ。

むしろ、それほどの愛を注げる人間というのは、並外れた自己愛があるからできるように思える。有り余る自己愛を振り撒くことができる才能。それこそがアイドルであり、スターなのだと思う。

自己愛があるからこそ、他者に愛を振り撒けている。ちょっと自撮りで自己愛が見え隠れしたからといって、未成熟の証には全くならない。

翻って自分のことを考えてみると、他者に割けるほどの自己愛があるのかすら怪しい。自分を愛せているのかすらわからない。

そんな自分を愛することさえ精一杯の人間からすると、自撮りを撮って世間に出せるほどの自己愛を持てることが羨ましい。

生まれ変わったら、自撮りをネットにあげるおじさんになりたかった。

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