それは誰の「意志」なのか

プロローグから続く謎「ルブリス(エアリアル)を動かし人を殺したのは誰なのか」

ルブリスとエアリアル

  • エルノラ―エリクト―MSの順に接続

  • スレッタ―エリクト?ーMSの順に接続

こう見れば操縦は操縦席に座るもの、従ってエルノラ及びスレッタの意思だ、という風にも見える
しかしプロローグ時点ではエリクトは「スコアを上げないと接続すらできない(と推定される)MS」と接続できた「人間」で、本編では人間の「魂」が転移されたにしろ「人格」が転移されたにしろ、或いは単に「情報」が転移されただけにしろ、既に「人間」ではなくなっている
と考えると

  • 人間―人間―MS

  • 人間―人間?-MS

へと変化している。前者と後者には実は大きな差がある
「人を殺したかどうか」

プロローグのルブリスは「ビットで殺害」しているが、エアリアルは「ビットで殺害」はしていない。手で「やめなさい」したが、あれは言葉からもその後の行動からも、スレッタの意思で行った行為と思われる

他でも徹底して「エリクトらしき存在がエアリアル本体を操った」描写がない、14話でソフィを殺しかけた描写でも、データストームかビットの攻撃であって、エアリアル本体は動かしていない。それっぽい演出として手をかざしているが、怪しいのはそれくらい

逆に言うとこれがあるせいで「エリクトはエアリアルを動かせない」と断定できない

動かせないのだとしたら「やめなさい」したのはエリクト?ではないわけで、プロローグでビット攻撃を命じたのがエルノラであれエリクトであれ「人間」で、それを受けた「機械」が命令を実行した
プロローグよりも前にあったドローン戦争では逆に「意志を放棄し兵器に決定権を委ねた」が、それも返せば「人が命令した「殺人許可」を機械が代行した」わけで、結論として「人が機械に命令した」原則に従っている

であるなら「人の許可なしで機械は人を殺せない」が成り立つのでは?
つまり

  • 人間―人間―MS(プロローグの殺人)

  • 人間―機械―MS(12話の殺人)

となり、プロローグではビット含め搭乗者の意志だからビットによる殺害、本編ではビットの操縦はエリクト?だから殺害するのはエアリアル本体によってでなけれれば「機械が自発的に殺人を犯さない」が成り立たない、と

他者の意志は混ざらない

更にここへ1話でミオリネが同乗、5話でエランが同乗した際に「エアリアルの操作に他者の意志が混ざらない」ことが確認されている
更に更に、16話では「5号単独で搭乗すれば拒否」されることが確認されたことで「生体認証した者が認めない人以外は搭乗すらできない」ので「操作は同乗者がいても必ずどちらか一人に絞られる」ことになる

であれば「エアリアルの殺人はスレッタ」であり、ルブリスは「レイヤー33を突破し接続したエリクトの罪」になる

勿論他にも考えるべき要素があるので完全にこれだ!と断定できるほど確実ではない。プロローグの演説で「自ら引き金を引き、奪った命の尊さと、あがないきれない罪を背負う」と言っていたが、これには「罪を背負うべき存在が罪を背負うべき」という強い意思があるけど、それを命じたのが「機械」なら、機械に命じた「人間」にまで訴求すべきだ、という意思を感じるし、それは15話で明かされた過去の戦争、ドローン戦争と思われるそれで得た経験からの信念と思う

ところで「こどもたちが屠殺ごっこをした話」をご存じだろうか

殺人が罪である、と認識できない子供が人を殺した時、その罪は罰せられるべきかどうか?という話
プロローグの演説が自分の解釈通りなら、人を殺す機械に殺人を命令した人間、或いはそれを作った人間を罰すべきだ、とするなら、ここでは「人を殺すような子供を産み育てた人間」を罰すべき、とならないか

そうなると「ヴァナディース事変」での虐殺は肯定されるべきとなる

ただし、その判断基準を持ち出したのは虐殺した本人であり「水に投げ込んで浮かんでくれば悪魔が助けたから魔女、沈んだままなら人間」という、どちらに転んでも殺す、という意思を感じる「魔女裁判」そのものだ
(デリングがそう明言してないのであくまで推測である点は注意されたい)

罪を犯したのが機械であっても背負うべきは人、では罪を犯したのが人であった場合、罪を科すに至らない人であった場合は?

スレッタは十分罪を問える年齢だが、精神年齢と罪の意識が十分と言えない部分があるので判断が難しい
けど彼女は12話で最初「母の罪」を見て怯えている、その後も「もっといい方法があったんじゃ」と反省している。つまりそれが「罪」であると認識しているのだ、十分罪に問えないか?

だったらあえて長々と描く必要はない、テーマとして結論はもう出ている。ならその罪を「人とも機械とも呼べない存在」が犯したのであれば議論する意味が出てくる、エリクトのような存在がやったのなら

結局どっちなんだ?

恐らくは先の結論「人が犯した罪」で「スレッタが考えるべき罰」だろうが、それは主人公自身の考えるべき命題であって、真の意味で「機械が罪を犯してないのか、その罪は誰に科されるべきなのか」は多分作中明確には議論されない
例えばケナンジ、プロローグぶりで戻ってきたと思えばコロコロと太って憎めないキャラになっていたが、彼はウェンディとナディムを死に追いやっている。ただしそれはドミニコス隊の命令に従っただけで、彼自身が殺してやりたいからと私怨でやったことではない

なら許されるべきだろうか?また彼はオルコットの性格を「青臭い正義感」と称し、それは「命令に従うことを是とする」意思の表れで、それも彼の生き方ということだから「上の命令に従った殺人」に対する罪を問うてもあまり意味はない。思考を放棄しているわけではないが、逆に「上からの命令」法で裁かれて死刑となれば受け入れるだろう。となればこの罪、本来は誰が被るべきだろうか?
「責任は私が取る」レンブランが親子そろって言ったこの言葉の意味が問われる

殺すことも死ぬことも英雄視しないよう、作中の死はほぼ軽んじられ劇的に描かれない。主要キャラであるヴィムを見ればわかるし、ソフィは逆にドラマチックにしすぎたくらいだが、あれはソフィよりもエリクトやエアリアルが何なのか、という謎を描きたかったので、相対的にそう見えるのだろう

殺すことの是非を問うならその過程も美化しない、死ぬ人は死に損だと、死ぬことや殺すことに意味なんてあるのか?と思わせなければ
ヴィムの死はまさにそれに相応しく無意味に見え、それでいて殺したグエルにとってはこの上なく重い意味がある

スレッタにとっての殺人も、あれと同じくらいの意味を持たせるのだろうが、顔すら知らない相手の死にどうやってそれを?
気になる

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