「最愛の子ども」の正体を考える~松浦理英子著『最愛の子ども』~

松浦理英子著『最愛の子ども』(文春文庫、2020年。以下、本作)を読了して、タイトルでもある「最愛の子ども」とは誰(何)なのか、と考えてしまった。

本作の舞台は、共学でありながら男子・女子のクラスが完全に分けられている私立玉藻たまも学園高等部の女子クラス「2年4組」。
舞原日夏ひなつ、今里真汐ましお薬井くすい空穂うつほの仲良し3人組が、他のクラスメイトに<わたしたちのファミリー>として、それぞれ父・母・(娘ではなく何故か)王子様という役割を与えられ、3人も<ファミリー>っぽく振る舞う高校生活において、修学旅行で起こった「きっかけの事件」を発端に、<ファミリー>に「近親相姦的同性愛」を仄めかすような雰囲気が生まれ、そのことによる「決定的な事件」を経て、卒業を待たずして<ファミリー>の離散に至る経緯が描かれている。

……と、一応は読める
現に、物語はちゃんと成立しているし、ちゃんと感動もできる。
しかし、少し注意して読むと何かが引っ掛かる。

「物語」は、一人称であれば主人公や周囲の人間の視点で、三人称であれば作者などを想起させるような「語り手」の俯瞰した視点から語られるが、「視点」である以上、一つの物事を語るのは常に一人(ひとつ)のはずである。
その語りは物語世界がどうであれ、「視点を持った者」が見たり、聞いたり、考えたりしたことが「(それなりに)物語上の事実」として了解されている。
これらは「近代物語」の決まり事である。
この決まり事があるから、我々は「物語」の文章を理解することができ、そこから物語世界や登場人物の感情などを読み解くことができる。

本作も、一応、その決まり事の上で読める。
しかし、事はそう単純ではない。


「語り手」は誰?

語り手は「わたしたち」と、複数形で名乗る。
最初それは「語り手を含めたクラスメイトたち」と捉えたのだが、そうではなさそうだ。
たとえば、美織の部屋に集まった「わたしたち」の場面。

四人がすわる美織の部屋には
(略)
「いや違うの」恵文えふみは強く首を振った。(略)
聞き手の三人は曖昧に頷いた。(略)
美織と花奈子と郁子鷹揚おうようだった。

(太字、引用者)

語り手を含めたわたしたち」なら『聞き手』は『三人』ではなく『四人』のはずで、もし、語り手が恵文なら『聞き手の三人』という表現が、語り手が物語を俯瞰している立場なら「わたしたち」という主語が、不自然だ。
だからつまり、部屋には本当に、美織・恵文・花奈子・郁子の4人しかいない。

さらに物語の随所で、<ファミリー>だけで起こったことや、彼女たちの「実際の家庭」での生活だけでなく、各々の内面までもが描かれる。
しかし、「わたしたち」が語り手であると考えると、これらの描写はとても不自然である。

わたしたちはわたしたちの見ていない所で何があったのか想像し、何が起こっているのか、これからどんな成り行きになるのか思いめぐらし、現実に知り得た情報を基にしつつも、わたしたちを納得させ楽しませるストーリーを妄想を織り交ぜて導き出そうとする。日夏と真汐と空穂に向ける目はよりいっそう欲望にうるむ。

上記引用のように物語中でも語られているとおり、それらの描写は「わたしたち」の「妄想」であり、<ファミリー>が実際にそういう言動をしたり、各々がそういった内なる感情を持っている、といった「物語上の保証」は全くない。

<ファミリー>の3人は、彼女たちを<ファミリー>として愛でたい「わたしたち」が『納得』し『楽し』むための『欲望』とシンクロするように、「離散」へ疾走してしまう。
つまり、「わたしたち」は<ファミリー>を、「理想の家族像」あるいは「美しいBLボーイズ・ラブ」として純化して慈しみたいという欲求の一方で、それ以上に「理想の家族、あるいは理想のBL「純化」したものが崩壊する姿を見たい」という欲望も持っていると言える。

と、そこまで考えて、語り手の「わたしたち」には「読者」も含まれているのではないか、と思い至った。
つまり、「わたしたち」とは、作者や2年4組のクラスメイトたち、そして読者をも交えた「欲望の総体」ではないのか。

「欲望の総体」として読者は、2年4組のクラスメイトたちとともに、<ファミリー>を「BL的関係(「同性愛」を仄めかすのが日夏空穂王子様というのは示唆的である)」に変容させ、それ故に崩壊していく様に心痛めると同時に、その裏返しとして興奮してもいるのではないか。
つまり本作は、「"女子高生による疑似家族"から派生した"疑似BL"」という二重の倒錯を内包した物語が、読者をも交えた「欲望の総体」よって「崩壊」していくという、複雑な構造を持っているのではないか。

ちなみに「近親相姦的」という意味において、「決定的な事件」によって<ファミリー>を(事実上)崩壊させる空穂の母が、日夏に向かって『空穂は渡さないわよ』とライバル視するのは、親子関係以上の感情を想起させる。
しかも、空穂の母は空穂王子様に「(女性用)ふんどし」を穿かせたりしており、疑似異性愛も感じさせる。
つまり、<ファミリー>という疑似家族の「近親相姦的」関係が実家族にも通じている点でも、物語の構造は複雑だ(しかも、疑似家族は疑似ボーイズ・ラブ、母子家庭である実家族は疑似異性愛(あるいは、同性親子による疑似夫婦)、と、いずれも倒錯した関係性となっている)。


「物語」は本当に起こったのか?

近代物語」の決まり事という点でさらに気になるのが、物語の導入部だ。
物語冒頭、真汐が「教師という大人の男性」に強要された「女子高校生らしさ」について反抗的な内容を綴った作文が紹介される。

その作文が原因で職員室に呼ばれた真汐の話題でクラス中が盛り上がる描写によって、主な登場人物たちほぼ全員が簡単に紹介されていく。
日夏・空穂を含め、多数の人物が雑多に紹介されていく導入に、読者は「わたしたち」という複数形の語り手の謎と相まって混乱する。
真汐が戻ってきてひと盛り上がりした後、「記録係」である草森恵文が黒板に書いた「配役表」が提示される。

主な登場人物(配役表)

私立玉藻学園高等部 二年四組

舞原日夏 パパ
今里真汐 ママ
薬井空穂 王子様

木村美織 目撃者 官能系情報コレクター
草森恵文 目撃者 記録者
(略)
保護者
伊都子いつこさん 薬井空穂の母

(太字、原文ママ)

恵文がこれを書いた理由は説明されない。
複雑なミステリー小説や邦訳された海外小説などで見られる「人物紹介」とも捉えることはできるが、しかし、わざわざ「配役表」と書かれているのは気になる。

冒頭で「(大人、しかも男性の考える)女子高校生らしさ」に疑義を唱えた後に「配役表」が提示された物語は、クラスの日常生活の描写と同じレイヤーで、上述したような「わたしたち」の妄想による<ファミリー>が、まるで(物語的)事実かのように生々しく描かれる。

この物語は、物語世界の中で、本当に起こったことなのか?

この疑問に関して、作者自身が朝日新聞の取材に答えたコメントが示唆的だ。

「語り手が全てを把握しているという形はいやだった。物語や伝承とは古来、社会が自分たちの欲望を投影して作ってきたものなので」
「物語を語るということは、どうしても語り手の欲望に合わせて語るということになる。その暴力性を少しでも和らげたかった」

朝日新聞 松浦理英子氏インタビュー記事

物語の舞台は2009~11年(物語冒頭で日本ハムファイターズに在籍しているダルビッシュ有を扱ったスポーツ新聞の記事が話題にされ、「わたしたち」が卒業する最終盤で『3月11日に起こった大震災』と言及されている)だが、この物語が発表されたのは「文學界」2017年2月号である。
何故、6年の開きがあるのか?
そのヒントは、上述の卒業のくだりにあるのではないか。

わたしたちは<わたしたちのファミリー>とともにあったこの物語の締めくくるにあたって、今一度真汐の視点を借りることにする。

つまり、この物語は作者自身が『語り手の欲望に合わせて語る、その暴力性』を内包する「近代物語」に抗い、『社会が自分たちの欲望を投影して作ってきたもの』である『(「近代物語」以前、古来の)物語や伝承』として、紡ぎ出したものではないだろうか。
『伝承』は、「昔むかし、あるところに……」と始まる、語り継がれた昔話に代表されるように、語り手は物語の中で無人格化されている(それは作者のような「物語を俯瞰している者」でもない)。
作者は、この物語を『伝承』として昇華するのに、つまり、「目撃者」に配役された特定できるクラスメイトたちが、「わたしたち」という「無人格の語り手」になるのに、6年の歳月が必要だと考えたのではないか。

そして同時に、「3.11」の震災の体験や記憶は、「記録」ではなく『物語や伝承』として、これから先の未来に語り継がれていくことを示唆してもいるのではないだろうか(「語り継ぐ」には、語り手が無人格化される必要がある。そうしないと、「目撃者」「体験者」がいなくなった時点で、「語り」は途絶えてしまう)。


「最愛の子ども」とは誰(何)か?

<わたしたちのファミリー>が離散・崩壊した物語のラストは、上述のとおり『真汐の視点』で結ばれる。

-ああ、そうだ。山下公園で日夏とわたしは何年後かに空穂がどんなふうになっているか見に行くと約束したんだった。思い当たると憂鬱そうだった真汐の顔に微笑みがこぼれる。

わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。

普通に読めば「最愛の子ども」は真汐と日夏の「王子様」である空穂ということになるだろう。
しかし、タイトルでもある「最愛の子ども」という言葉が最後の一文で唐突に登場する(しかも、一行空けて)のは、どこか違和感がある。

しかし「わたしたち」が読者をも交えた「欲望の総体」であるなら、「子ども」とは『社会が自分たちの欲望を投影して作ってきた(これこそが「欲望の総体」)』『伝承』を重ねた後の「この物語自体」ではないだろうか?
それは、『語り手が全てを把握しているという形はいやだった』と考える作者が、『どうしても語り手の欲望に合わせて語るということになる』物語の必然を逆手に取って、「欲望の総体を構成する一個人各々の欲望」に合わせて変容していく「伝承」に託した希望ではないだろうか?

それは、2011年に『わたしたちを納得させ楽しませるストーリーを妄想を織り交ぜて導き出』した<ファミリー>の崩壊を、「欲望の総体を構成する一個人各々」が『納得させ楽しませるストーリー』として伝承する「最愛の物語」への希望だ。
その希望を託す上での「物語の前提条件」として、冒頭で「大人が考える女子高校生らしさ」に疑義を唱え、「配役表」を提示しているのではないか。

ラストシーンを引用すると、すぐに「ネタバレだ」と言い出す人がいて、実際そういう物語も多いが、本作についてはその限りではない。
上述したとおり、この物語はこのラストシーンで完結していない。
「わたしたち」は「最愛の子ども」に会いに行くだけの存在ではなく、「最愛の子ども」を産み落とす存在でもある。
その伝承の担い手である「わたしたち」には、登場人物や作者だけでなく、我々読者も含まれているのである。



と、本稿をまとめた(つもりだ)が、本作を一つの「完結した物語」と見做した上で、別の視点から少し付記しておく。

私は耽美系にもBLにも縁がないオヤジだが、本作の中盤あたりから、泣きそうになりながら読んでいた。
それは悲劇を予感させたからでも、痛々しい展開が胸を締め付けたからでもなく、自分でも理解できない感情だった。
たぶん、そうなったのは修学旅行の後、上述した美織の部屋で4人が語る場面、まさに「語り手が不在」だと気づいたあたりからだったと思う。
その時点ではまだ、「わたしたち」とは「3人を<ファミリー>と呼ぶクラスメイトたち」という漠然とした捉え方をしていたはずだが、無意識のうちに私は「わたしたち」の一員であることに気づいてもいたのではないか。

実は、「伝承」については物語の序盤に恵文によって『いちばん初めに誰が語り出したのかわからない』『すごく人気がある伝承は、語り継がれるうちにみんなの欲求に合わせていろんな要素が付け加えられて(略)どんどんふくらんで行く』と言及されており、「わたしたち」は時折、その言葉を思い出す。
それは、「ハッピーストーリー」を望む「わたしたち」少女の純真さに生じた小さな綻びから染み出してくる「崩壊へ追い込む欲求」、そんな醜い欲求が自身の中にあると知った戸惑いと、その醜い欲求こそが<わたしたちのファミリー>を悲劇に追い込んでいるのではないかという恐怖感・罪悪感、そして一度ふくらみ始めた「伝承」になす術なく流されてしまうことしかできない絶望感として、無意識のうちに「わたしたち」の一員となっていた私自身に転化され、泣きそうになったのではないか。

しかし読了して私が感じたことは、実は、物語は「絶望」への疾走ではなく、結果的に起こってしまった事実としての「崩壊」から<ファミリー>を救うために語られた「希望」ではないだろうか、ということだ。
本文で引用した文章を「後に語られた伝承」として読み換えると、物語が反転する(ルビ部が原文)。

わたしたちはわたしたちの見ていない所で何があったのか想像し、何が起こっているのか、それこれからどんな成り行きになったのか思いめぐらし、現実に知り得た情報を基にしつつも、わたしたちを納得させ楽しませるストーリーを妄想を織り交ぜて導き出そうとする。日夏と真汐と空穂に向ける目はよりいっそう欲望にうるむ。

「わたしたち」を『納得させ楽しませ』、目を『うる』ませる『欲望』とは、「崩壊」ではなく「再構築」だった。
だからこそ「欲望の総体」の一員である私は、ラスト一行に込められた「わたしたち」の純粋な願いに、本当に涙を流したのだ。



しつこいが、更に追記。
<ファミリー>における日夏と空穂の「近親相姦的同性愛」は同時に、日夏真汐との関係を壊すものでもあり、「わたしたち」の『欲望』は、それ(まぁ一種の「不倫」であり「三角関係」でもあるわけで……)に対しての懲罰的意味合いも含まれていたのでは、と思ってみたりする(芸能人の不倫報道における第三者たちによるSNS上での炎上みたいなもので、各々のちょっとした正義感や怒り、悪意が不気味なほどの総体となって、思わぬ形で現実社会を動かしてしまう、みたいな)。

本作は、深く読めば色々考えることができる、とても優れた物語である。
さすが、第45回泉鏡花賞受賞作。


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