喪失から立ち直る第一歩~舞台『ラビット・ホール』~

失恋には「時間薬」……

昔、何かのマンガだったか小説だったか、ドラマだか芝居だったかでそんな言葉を知った。
確かに、失恋に限らず、あらゆる「喪失」から立ち直るには、ある程度の「時間の経過」が必要だと思う。
たとえば、亡くなった人を見送る生者には、「初七日」「四十九日」など、時間によって喪失から立ち直るためのステージが用意されている。

「喪失から立ち直る」とは、どういうことだろう?
「悲しみが癒される」という言葉があるが、それが「喪失から立ち直る」ということなのだろうか?

「時間薬」には効き目があるだろうが、しかし、ただ時間が過ぎるに任せているだけでは効果が表れない。と言うか、ただ時間に任せてなんかいられないほどの「副作用」があるからこそ、効果が表れるのである。

副作用は、なかなかやっかいだ。
喪失感に対する内なる葛藤や絶望ももちろんだが、その喪失感を理解してくれない他者に対して怒りが湧いたり、逆に、他者の労わりが自分を責めているように感じて傷ついてしまったり……

それらの激しい心の揺れは、同じ喪失を経験した人とも共有できず、それがまた激しい苦悶となって自身に返ってくる。

舞台『ラビット・ホール』(デヴィッド・リンゼイ=アベアー作、篠崎絵里子上演台本、小山ゆうな演出)は、愛する一人息子を不慮の事故で亡くした夫婦にとって、「時間薬」の効果が表れ始めるまでの物語だ。


ベッカ(小島聖)とハウイー(田代万里生)は、8カ月前、4歳の息子ダニーを交通事故で亡くした。
ベッカが目を離した隙に、愛犬を追いかけて道路に飛び出してしまったダニーを、高校生のジェイソン(新原泰佑)の運転する車が撥ねたのだ。

夫のハウイーは、同じように身内を亡くした人たちのケアグループに通い、また、仕事や趣味に没頭することにより喪失を受け入れ、前を向こうと懸命に努力している。
ベッカは、互いに傷を舐め合うことで喪失感に陶酔しているだけに見えるケアグループを嫌悪し、そんなグループに心酔するハウイーに反発する。
一方のハウイーも、写真や服などダニーを思い出させるものを遠ざけることで、ダニーの存在を無理矢理消失させようとしているベッカが理解できず、苛立つ。
2人の間にできた愛する息子を亡くしたことですら、全く同じように共有することはできない。悲しみへの対処も人それぞれだ。
一番理解してほしい、あるいは理解し合えるはずの人が一番理解できない。

物語は、互いに喪失感を共有して欲しい人が、「自分と同じように悲しまない」ことに傷つき苛立つ様を描き出す。
夫婦であっても相手は所詮「自分ではない者」である厳然たる事実が、一層の孤独と絶望を生み、喪失感を深めてゆく。


一人ひとり、悲しみや喪失への感情は違うし、対処の仕方も異なる。

当たり前のことだ。
だが、そんなことが言えるのは、これが「物語」であり、しかも今、目の前で演じられている「芝居」だからだ。
悲しみや喪失の中にいる人はそれに気づけない。
席に座って事の成り行きを静かに見守るしかない観客は、劇場を後にすれば誰もが、今そこで夫に当たり散らしているベッカであり、夜中に独りダニーが映った動画を見ながら号泣するハウイーなのである。

そんな観客は同時に、当事者夫婦だけでなくその周囲の人も、それぞれ悲しみや、(「懺悔したい罪」とも言える)後悔のようなものを抱え込んでいることを知る。
ベッカの妹イジー(占部房子)は、姉が息子を亡くして間もないというのに妊娠してしまったことに罪悪感を持ち、それがベッカに対する遠慮のような態度に現れる。
しかし、彼女には別の後悔もあることが、終盤に判明する。
その後悔は、「偶然」が最悪の「必然」に転化してしまったことへの畏れでもある。
ある悲しみや喪失の裏には、客観的には「ただの偶然、考え過ぎ」のようなことで、無関係と思われる他者が後悔や「罪」を感じている……そのことに、観客はハッとさせられる。

ベッカの母親(木野花)も過去に息子(ベッカとイジーの兄)を亡くしており、娘の悲しみが実感できるが故に、何とかしてかわいそうな娘を救いたいと世話を焼くが、却って娘を遠ざけてしまう。
切ない母心と、それが娘に届かない戸惑いに観客の胸は締め付けられる。

車でダニーを撥ねてしまったジェイソンは、「瑕疵はなく、ダニーが飛び出してきたことによる防ぎようがなかった事故」という客観的(社会的)判断が下され相応の罰を受けたにも関わらず、些細なことを「重い十字架」のように思い込み、それを背負うことにより「罪」を償おうとしている。


「喪失から立ち直る」とは、どういうことだろう?
私は幕開けから、そのことだけを考えていた。
ベッカやハウイーの苦悶を目の当たりにして、どう考えても、2人が「喪失から立ち直る」なんてことは起こりそうになく、永遠に悲しみや苦しみが続くのではないかと、何度も悲観しそうになった。

悲しみが癒えれば立ち直れるのだろうか?
しかし、それでは全てが個人作業になり、喪失や悲しみは自分一人が引き受けなければならない「宿命」となってしまう。
それは上述のとおり、喪失や悲しみが他者と共有できないという点において、ある意味正しいのかもしれない。だが、それでは「人生」あるいは「人間そのもの」に対して、「希望」は無意味なものになってしまう。

終盤、「重い十字架」を背負ったジェイソンが、ベッカに会いに来る。
その十字架はジェイソン自身が勝手に作り出したものではあるが、それ故に、それを背負うことでジェイソンは「希望」を見出すことができた。

ジェイソンは十字架ではなく、そこから生まれた「希望」をベッカに託す。
「希望(それこそが、この物語のタイトル)」を受け取ったベッカは、堰を切ったように号泣する。もしかしたら、ダニーが亡くなって初めて流した涙かもしれない。

ベッカの涙から物語の結末までの展開を観て、私は確信した。
「悲しみを癒す」のではなく「悲しみから救われる」ことが、「喪失から立ち直る」ための第一歩なのだと。
そして、我々が「喪失の渦中にいる人」に対してできることは、「救われるための希望を見出す」手伝いだ。
それは「手を差し伸べる」ことかもしれないし、「ただ傍に寄り添う」ことだったり、抱きしめたり、あるいはもっと別のことなのかもしれない。
「時間薬の副作用」を軽減させることが、我々にできる唯一のことかもしれない。


メモ

舞台『ラビット・ホール』
2022年2月26日マチネ。@KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

自分でチケットを購入して劇場まで足を運んだというのに、この辛い物語が開演するまで、いや開演した後も、ずっと気が重かった。観劇自体を後悔しそうにもなった。
しかし、劇場を後にした時「観に来てよかった」と心から思った。
確かに喪失感は共有できない。
だから、その代りに相手を想うことで相手を救い、逆に誰かに救われもしながら、何とか立ち直るのである。
それを、生身の俳優の身体を通して実感することができた。

「観劇」だって立派な「薬」なのである。


余談だが、観劇した回、2幕途中に機材トラブルで中断した。
詳細はわからないが、一度始まった物語はめったなことで中断しないので、よっぽどの事が発生したのだろう。
想定外の休憩が挟まれたりしたが、観客は誰一人文句を言わず受け入れていた。
これもまた「生で観る」という観劇の醍醐味の一つである。


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