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当たり前を当たり前にしたくなくて、私はクローゼットに閉じこもる

あまり人に言えない癖がある。

少し奥行きがあるクローゼットにカーペットを敷き、小さな椅子をテーブルがわりにセットする。ドアの小さな隙間から電気スタンドのコンセントを通して扉を閉じる。これだけで私だけの国が完成する。

その国は、服と本の山で国土が形成されている。その国へのパスポートはいらないが必需品がある。それは大好きな香水(もしくはルームフレグランス)・パソコン・ゼンハイザーのヘッドホン・淹れたての珈琲だ。

少しだけ埃っぽい匂いのその国に1プッシュだけ香水をかけてあげる。その国の空気に好きな匂いを混ぜ込んで、身に纏える空気へと変換する。それから小さな椅子にパソコンを置き、首元のヘッドホンにもう一度両耳を覆ってもらう。そうして大音量で音楽を流しながら、珈琲を啜る。

これが私の人に言えない癖で、趣味で、一番落ち着く時間だ。
眠れない夜、気の乗らない朝、何もしたくない夕方。どんな瞬間もこの国に行くことで消化して昇華される。いつでも逃げ込める私だけのユートピアが自宅にある。それだけで生きていく理由がまた一つ増える。

真っ暗な空間で音楽に揺られる

海外に住んでいた頃、そしてまだ英語がそんなに上手くなく、その割にプライドばかりが先行して頭でっかちになっていた頃。自分の家は完全にシェルターだった。日本とは違う夕暮れの訪れ方、すごく低い位置から身長の高い木々を抜けて差し込む夕焼けのオレンジ色。それらをブラインド越しに取り入れながら、Beatsのヘッドホンと珈琲をお供に音楽を流す。そうするとどんな辛いことも。ストレスも、恥ずかしさも音楽の波に消えていくような気がしていた。あの頃は常に快眠だった。眠ることがあれだけ楽しかった時期はいままでの人生を探しても他に見当たらない。

間違いなく音楽はエンジンになっている。4ヶ月ほど全く音楽を聞かなかった時期があった。単純にイヤホンやヘッドホンが全て壊れてしまい聞けなかっただけなのだが、最初の2ヶ月間ぐらいはそれでも我慢ができた。しかし、3ヶ月目くらいから音楽に飢えはじめた。4ヶ月目で、気づくとAppleのお店でBeatsのヘッドホンを買っていた。お店を出たすぐ目の前にあるショッピングモールのソファで包装を解き、すぐさま電源を入れiPhoneに接続した。4ヶ月ぶりに耳で感じた音楽はどんな嗜好品より、ドラッグより、性行為より痺れた。耳元で好きな音楽を感じられることがただただ嬉しくて、その日はダウンタウンから家まで3時間ほどかけて歩いて帰った。随分と遠回りをして海沿いを歩き、何度もバスに追い越されながら歩いた。

残念ながら当時使っていたBeatsのヘッドホンは壊れてしまった。だけどどうしても捨てることはできなくて、今も家を飾ってくれている

全て当たり前になってしまわないように

スマホやパソコンを見ながら人生を歩む内に、あらゆるものが変わってしまった。ふと顔を上げて全体を見回すと、あらゆるものが安く、簡単に、移動しなくても手に入るようになってしまった。まるで社会全体がgoogle検索になってしまったよう。答えが簡単に手に入るようになって、注文したらすぐに届いて、欲求も簡単に解消できる。

何もかもが当たり前になってしまった。

当たり前が当たり前である世の中は、当たり前すらできない人に対する目線が訝しさを含み、無意識のうちに大前提となった期待が疑心を生む。
そこにあって当然なものや人、体験が増え、そこに「ない」ものが少なくなる。

人との関係もそう。確実に連絡ができるから。明日も、来週も会えるから。今日も家に帰ったら会えるから。そんな当たり前感覚は、「大切さ」に翳らせ、影の中に飲み込んでしまう。その大切さに気づけなくなった時、もしくは大切さに気づけなくなったことに気づいたとき。私たちの身体にぽっかりと空いた穴を自覚してしまう。その穴を認められなくて、向き合いたくなくて、どんどん遠ざけて、大切さではなく、刹那のコンテンツで穴を埋めようとする。

そうならないように。
そうなってしまわないように。
常に大切な瞬間に向き合っていたい

だから私はクローゼットに閉じこもる。頻繁に。
自分だけの空間で、国で。全てが当たり前ではないことをちゃんと自分自身に教えてあげる。

淹れたての珈琲も。
大好きなヘッドホンも。
生活を支えるパソコンも。
この部屋そのものも。
遠くにいる家族も。
笑っている顔が見たい友達たちも。
別の国にいる親友たちも。
私の全てを作った恩師も。
今いる環境や組織も。
そして、
一番大切なあなたのことも。

私はこれも愛と呼ぶ



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