マガジンのカバー画像

今週のおすすめ記事

1,466
note編集部がおすすめする記事を集めました!(毎週更新)
運営しているクリエイター

#マチネの終わりに

『マチネの終わりに』第六章(40)

 一旦、走りかけたものの、運転手は左に車を寄せて停車し、ドアを開けた。蒔野は呆れて文句を言おうとしたが、その時間も惜しく、苛々しながらタクシーを降りた。運転席からは、弱々しい謝罪の声が聞こえた。蒔野は、丁度すぐ後ろから来たタクシーを強引に止めた。  今度は、問題なく車が走り出した。運転手は、 「お客さん、今、前のタクシー降りられたみたいですけど、何かありました?」  と尋ねたが、蒔野はそれに生返事をして、落ち着かないまま窓の外に目を遣った。  間に合うだろうかと、考え

『マチネの終わりに』第六章(34)

【あらすじ】東京の蒔野とパリの洋子は、結婚後の二人の生活に思いをはせる。だが蒔野は自らの音楽の停滞に焦り、洋子はリチャードとの婚約解消交渉の難航とバグダッドで遭ったテロのPTSDに苦しんでいる。洋子は蒔野のマネージャー、三谷に嫉妬を感じ始めるのだった。 ……………………………………………………………………………………………  あまりクラシックもギターも詳しくないと、自分で言うところは不安だったが、会社からは優秀だと見込まれて、この不採算部門を何とかしろと発破を掛けられている

『マチネの終わりに』第六章(30)

 洋子は、是永のいかにも悪気のない憶測を、あれ以来気に掛けていた。一旦芽吹くと、洋子の中には、夏休みの朝顔のように三谷の存在が幾つもの鮮やかな花を咲かせ、感情の隙間にその蔓を絡ませていった。  一つ一つの花は、決して長くは保たなかったが、蕾の数はなかなか減らず、どうやらこの夏いっぱいは、続きそうだった。蒔野に会うまでは。――もし彼がすぐ側にいたなら、恐らくは本葉が出たくらいの頃に気がついて、怪訝そうな顔で、洋子の心の中からそれを引き抜いてしまっていたはずだった。洋子の心を乱し

『マチネの終わりに』第六章(29)

 洋子の日本滞在は、僅かに一週間の予定で、蒔野はそれをやはり、短いと感じたが、ジャリーラを独り残して、あまり長くパリを空けるのは心配だという彼女の考えは理解できた。彼が愛しているのは、まさしくそういう洋子だったが、休暇自体は二週間取っているらしく、パリに戻ってからの残りの一週間を、どんなふうに過ごすのだろうかと思うと、その傍らにいられないことをもどかしく感じた。  洋子自身も、短いとは感じていた。  ジャリーラのことが気に懸かっていたのは事実だった。ジャリーラは、むしろ洋子に

『マチネの終わりに』第六章(27)

 彼女は、蒔野さんが主演を務める人生に、ずっと、すごく重要な脇役としてキャスティングされ続けるなら、自分の人生はきっと充実したものになるって言うの。考えただけでも胸が躍る。だから、蒔野さんのためなら何だってできるって。――面喰らっちゃった、わたし。」 「そういう考え方って、……あるのね。ドキッとさせられるわね、ちょっと。」 「洋子のことも言ってた。」 「わたしのこと?」 「例としてね。女だからそう思うわけじゃない。洋子さんみたいな人は、自分の人生の中で、十分主役として

小説家とクラシックギター『マチネの終わりに』

人形を作り、それをつかった写真作品を作っているサイトウタカヒコです。楽器というものにはまるで縁がありません。(Portfolio Website:http://saitotakahiko.strikingly.com) 毎日新聞・note上で連載している平野啓一郎さんの新作小説『マチネの終わりに』との連動企画に参加しています。 先日、平野啓一郎さんとスペイン・中南米音楽の専門家で雑誌「現代ギター」にて批評もされている濱田滋郎さんとの対談イベントに足を運びました。 イベントの

『マチネの終わりに』第六章(21)

 それは、……だから、彼女はわたしのために泣いてくれましたし、わたしをずっと心配してくれていました。パリの誰かが、『でも、高々、六週間やそこらでしょう? 二回行ったって言っても、合わせてたったの三カ月。兵士として戦闘の最中にいたわけでもなくて、ホテルでじっとしてたんでしょう?』って言ったとしても、ジャリーラはきっと、わたしを庇って弁護してくれます。――もちろん、わたし自身、大したことは出来ないまま、帰国してしまったという意識はあります。その無力感は、誰よりも知ってます。イラク

『マチネの終わりに』第五章(30)

 しかし、決心は変わらなかった。何度か涙ぐみそうになったが、その権利があるのは彼の方であり、最後まで堪え通した。  リチャードは、納得せぬまま、来週また来ると言い残して、一旦ニューヨークに戻った。洋子は空港まで見送らず、彼に会うのも、最後にするつもりだった。  自宅で独りになると、さすがに呆然となった。罪悪感に浸ることさえどこか醜悪で、縋るように、ただ蒔野のことを考えようとした。リチャードに非はなかった。それでも確かに、彼女にとっても、傷は傷だった。  蒔野の腕の中で、

+2

「マチネの終わりに」のための覚え書き。

『マチネの終わりに』第五章(26)

 ジャリーラは、先ほどの冒頭よりは、まだどうにかイメージできるという風に頷いて聴いていた。  洋子は、もう一度立ち上がって、今度は滞りなく朗読するために、英訳本を持ってきた。そして、第五の哀歌のページを開くと、ジャリーラに目配せした。  蒔野は、 「じゃあ、洋子さんが朗読したら、続けてテーマ曲を弾くよ。ジャリーラのために、映画のラストを再現しよう。」  とギターを調律しながら言った。洋子は、そのアイディアに同意して、 「わたし、これからはプロフィールに、『二〇〇七年

『マチネの終わりに』第五章(17)

 ジャリーラの滞在許可は下りた。他の国から来た彼女以外の四人は、全員不許可だった。  赤十字の職員は、安堵した様子だったが、大仰に喜んでみせることはしなかった。  彼女にとって、ジャリーラは飽くまで一つの事例であり、幸不幸を問わぬ過去の数多の事例が、その意識を掠めているようだった。  彼女は、フランスに滞在しながら第三国へと亡命するための手順を、手引きの冊子に赤いボールペンで印を付けながら丁寧に説明した。必要書類や関係各所の連絡先、亡命希望者を支援するNGOのリストなど

『マチネの終わりに』第五章(11)

 沈黙が、唐突に脇から彼を追い抜いてしまった!――そして、何も聞こえなくなった。どういうわけか、しんとしていて、時間が、虚無のように澄んでいる。蒔野は、舞台の照明が目に入った時のように、その静寂を少し眩しいと感じた。人混みで財布を掏られたかのように、音楽がどこにも見当たらなくなっていた。手元にはただ、激しい鼓動と火照りだけが残されている。  聴衆は、突然、演奏が止まってしまったことに驚いた。蒔野自身も呆然としていて、何が起きたのか、わかっていない様子だった。すぐに演奏に戻ろ

『マチネの終わりに』第五章(10)

 少なくとも、その音に身を委ねている限りは、この世のあらゆる不測の事態の不安から、聴衆は解放されているのだった。  ミサを終えて教会から溢れ出してきた群衆というのが、この第三楽章の作曲者の着想だった。それに忠実であるならば、疾走する想念というよりは、むしろ際限もない多様性の明滅であるべきか。マスタークラスでもそんな話をした。しかし、この時の蒔野は、聴衆の感覚をたった一本のあえかな糸で束ねて導いてゆくように直走っていた。「速すぎて情緒に欠く」としばしば批判された十代の頃よりも

『マチネの終わりに』第四章(38)第五章(1)

 蒔野は、ほとんど諦念の響きさえある声で、少し間を置いてから言った。 「洋子さんを愛してしまってるというのも、俺の人生の現実なんだよ。洋子さんを愛さなかった俺というのは、もうどこにも存在しない、非現実なんだ。」 「……。」 「もちろん、これは俺の一方的な思いだから、今知りたいのは、洋子さんの気持ちだよ。」  混雑していた店内は、いつの間にか、客が疎らになっていた。彼らの右隣にはもう客はなく、左隣の客も帰り支度を始めていた。  洋子は、唇を噛んで落ち着かない様子で俯き