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インドでおなかを守る極意と、インド的「下請け文化」の考察-③


(今回の記事は、前回の投稿、インドでおなかを守る極意「習慣編」「道具編」の続きですが、インド的「下請け文化」の考察に関する単体投稿としても完結しています。)

なぜインドはこれほどまでに衛生管理が困難なのだろうか。その大きな理由の一つは、インド的「下請け文化」である、という仮説を置きたい。
この文化はカーストという宗教的背景が存在するヒンドゥー教徒に限らず、イスラム教徒や仏教徒も含めて、宗教に関わらずインドの社会・組織文化として地域と人心の隅々に浸透している。インド的「下請け文化」とは、ここでは、「役割を細分化し、苦労が多い仕事を、立場が下の人間にどんどん下ろしていくことを是とする社会文化特性」と定義したい。この「下請け文化」が社会の隅々に浸透していることと、公衆衛生を維持する難しさがどのように関係しているのか。以下が、その仮説の大枠である。

 
インド的「下請け文化」
⇒汚いものや大変な仕事を下に押し付ける。その行為に対する心理的、社会的な抵抗も少ない。
⇒仕事が下に降りていくごとに、ひとつの物事に関する関係者数が肥大化。⇒それが容易に繰り返されることで、社会の最下層までバリューチェーンのどこかに関与することになる。
⇒下層の衛生レベルが、インドの衛生環境全体に遍く影響する。

 

・インドのレストラン、病院、オフィスの「下請け文化」の例

ここで説明した仕組みを、まずは、レストランを具体例にとってインド民の人間模様と共に見てみる。
インドのレストランを観察していると、主に次のような役割が存在する。①店の外で客の呼び込みをする係、②フロアマネージャー、③注文を取りに来る人、④料理を持って来る人、⑤レジで会計をする人、⑥皿をかたづける人、⑦調理をする人(シェフ)、⑧シェフの手伝いをする人、⑨食器洗いをする人、⑩掃除やごみを片付ける人、⑪レストランオーナー。
極端な場合、インドでは小規模なレストランでもこれらの仕事はすべて別々の人物がやっていて、暇や余裕があっても互いに仕事を共有したり助けたりすることはなく、それを注意されることもない。特に、②や⑤のような管理側が、③、④、⑥などの作業を行うことはなく、客が待っていたとしても担当者にやらせ、自分はその仕事を手伝おうとしない。⑨や⑩などの仕事に至っては⑧が行わずに、相当低い賃金で暮らしている別の担当に「下請け」に出している。彼らが食器を触り、管理し、ゴミ出しを行うために厨房に出入りするのである。さらに言えば、厨房に運び込まれる様々な食材の調達先には無数の外部関係者が関係しており、彼らは彼らで仕事を細分化し、下請けに出している。その結果としてあなたに出される食べ物のバリューチェーンにインド社会の上から下まで関わることになる。そして、インドにおける下層世界は我々日本人が想像できないほど過酷で不衛生な世界である。まともな屋根がない家で暮らしていたり、家庭から出された生ごみを道具も使わずに仕分けしていたりする状況を現在のデリーの道端でも簡単に見かけることができる。

インド的「下請け文化」は、食の分野に限らない。病院の医療体制を見ても同じような極端な分業制を敷いている。日本では、医師・看護師・看護助手が入院患者の世話をするが、インドではベッドのシーツを取り換える人、食べ物を持って来る人、薬を持って来る人などは、医療知識を持っていないような人がやってきて患者の世話をすることが多い。数日入院していれば、毎日初めて見る人が入れ替わり立ち替わりやってくる。もちろんこれらの仕事を看護師や看護助手が手伝うことがないわけではないが、特にリソースがあるような大きな病院は、効率性の面からは不必要と思えるほどの分業体制を敷いている。

オフィスで仕事をしていても下請け文化は非常に色濃い。特に現在の五十代から上の世代で上位カーストに属するような層は、そのメンタリティを強く持っていて、自分よりも職位が下の者がいれば、どんどん仕事を下請けに出していく。同じようにそれを受けた者は可能な限り更に下の者に仕事を投げていく。インドのオフィスには、昔の日本の「お茶汲み女性」のように、コピーを取ったり、届いた郵便物をデスクに届けたり、ティッシュの交換をするなどの雑務をするだけの「メールボーイ」が多数いて、月収一桁万円の非常に低い給与で働いている。100人しか出勤していないオフィスに、これらのメールボーイや掃除のスタッフや警備員が20人以上働いているなんてことも普通に起きる。これらのスタッフを派遣する会社もインドには無数にあり、オフィスワーク全体がその前提で動いている。

もちろん、レストランも、病院も会社も、重要でない仕事ほど給料は低く、そのレベルの生活水準の人間がその仕事を行うことになる。つまり、インドの社会は階層に分かれているものの、同じ社会を構成するピースとして上層と下層が繋がっていて、上層も下層も互いがなくてはならない存在として共生しているのである。ただ個別の人間が下請けを行っているのではなく、社会の全体の仕組みと心がそれを前提として作られて運営されている点が、インド的「下請け文化」の特徴と言える。
インド民の仕事ぶりを見ていると、このような極端な分業体制は、質や効率の向上といった目的を十分に検討されることなく、単に「この仕事はやりたくないから下に任せよう」という思考から下請けに回される傾向にある。その結果、何か一つの物事を行うにあたって、その一つの仕事は無数の人間に振り分けられて処理される。そうなると、いくらインドが経済的に発展しようとも、バリューチェーンは冗長になり、不衛生な環境と文化で生活している人々との繋がりから切り離されることがない。これが、初めに説明した、インドの下請け文化が衛生環境に影響を及ぼしている流れである。

・「下請け文化」と対比的な日本の寿司職人

インドのこの状況は、日本の寿司職人の仕事の仕方を考えてみると非常によく対比される。寿司は生の魚を手で扱うという点で、究極の食品衛生管理が求められる料理といえよう。そこでは、トップである店長兼板前自らネタ選びに早朝から魚市場に足を運び、自分の目でネタを調達する。その後、ネタの仕込みから時にはシャリ作りまで自らの手で行う。客の目の前に皿を出したり、寿司を出したりするのも板前本人である。板前自身の快適さと効率を考えれば、このバリューチェーンの中のどこかの部分を下請けに出すことができる。しかし高級店であればあるほど、そして著名な寿司料理人であればあるほど、自らがバリューチェーンの全体を管理・実行している。ここには、不確定な不衛生要因が介在する余地が少なく、その店に責任を持ち、高い能力を有したある程度の生活をしている人物だけがバリューチェーンに携わり、衛生状態が担保されている。

・インド的「下請け文化」の持続性

インドの不衛生な状況の一つの大きな要因として、インド的下請け文化がある」、という仮説に対して、「単純に貧困や低所得であることがインドの衛生状態の悪さの原因である」という説もあるだろう。確かに一人当たりGDPの高い先進国を見ていくと、比較的衛生環境がよい国が並んでいることからも、所得が衛生環境に影響しているというのは賛成である。しかし、インドよりも一人当たりのGDPが低いカンボジア、ケニア、ミャンマー、ウズベキスタンなどがインドよりも衛生環境が悪いという話は実は聞こえてこない。実際に私もこれら低所得国のいくつかに足を運んだことがあるが、インドほどの衛生問題を感じたことはなかった。つまり、所得の大小は、衛生水準と相関関係がありそうだが、だからといってそれだけでは説明できないファクターがインドの衛生レベルを押し下げていると言える。例えば、注目すべき先行研究として、アメリカの心理学者リチャード・ニスベットがインドネシアで行った研究がある。簡単に内容を述べると、社会の下請けの度合いと公衆衛生の水準をインドネシアの異なる地域間で比較したものである。その内容は、下請けの度合いという社会構造が、公衆衛生のレベルと関連していること示唆しており、下請けの度合いが強い社会は公衆衛生水準が低いという結果となった。この研究の派生研究を追い、インドに当てはめる時間的余裕が自分にないことは残念だが、仮説をサポートする一つの材料になると考えている。
 
インド的「下請け文化」自体は、インド社会の基礎構造であるので、これは永遠になくなることはない。つまり、インド的「下請け文化」がインドの衛生環境を押し下げているという仮説が正しければ、今後もインドの不衛生な環境が劇的に改善することは期待しにくいという示唆となる。
なぜこの「下請け文化」がなくならないと言えるかといえば、ハイクラスの人々に限らず多くのインド民が、この文化の恩恵を受けている部分もあるからだ。言うまでもなく、ハイクラスのインド民にしてみると面倒なことを次から次へと下請けに出すことができるインドの生き方は快適だ。家事やゴミ出しをメイドが行うのは当たり前。運転はドライバーが行い、庭は庭師が掃除し、一軒家にはほぼ必ず「チョキダール」と呼ばれる門番がいる。子育てもベビーシッターが行い、旅行先などにも同行させる。これは、決して超富裕層の人間だけのたしなみではない。2024年現在で世帯年収1000万円くらいを超える層はほぼこのような生活をしている。
現在そんな生活を享受しているので、支配層のインド民にとっては、使用人の存在と介在が衛生問題だけでなく自分を取り囲む社会の不安定要素と知りつつも、今更DIY的な文化に社会をアップデートしようとする気もない。インド民マダムにしてみれば、床掃除を自分ですることは、日本人に自分で火起こししろと言っているに等しいのである。支配層にとってメリットが大きいため、この文化や社会の仕組みを上から変えるインセンティブはなさそうだ。
社会の下層で生活をしている人間も、自分がやりたくない仕事を更に下層に投げることができるので、実はこの下請け文化の恩恵を受けている。例えば、オフィスで働く雑用係にもランクがあり、コピーなどを取る人、オフィスの掃除をする人、トイレの掃除をする人、これらは別々の人間がやっていたりする。中には一日中トイレの掃除だけをしている人もいる。コピーをとる作業をしている人から見れば、当然トイレ掃除などやりたくないので、彼らも下請けに出せることによる恩恵を受けているのである。つまり、誰しもが誰しもの支配者であり、元請けという構造になっている。
 

・「下請け文化」がインドの産業にもたらす弱点

以上の通り、インドでおなかを守る話から、インドの衛生状態が悪い原因の仮説としてインド的「下請け文化」の存在と性質を考察することができた。では、下請け・分業制を敷いている社会の弱点はなんだろうか。食の問題から離れて、そこから見られるインド社会と企業文化の分析として何か得られるものはあるだろうか。
すぐに思いつく弱点は、超一流の製品とサービスを生み出すことが極めて難しいということだろう。下請けにどんどん仕事を任していくと、末端では職業倫理やプロフェッショナリズムに欠ける人間がプロセスの一部に関与することになり、それは超一流を実現する妨げになる。ホテルのサービス一つをとっても、クリーニングサービスを外部の下請け業者に出した場合、その下請け業者は高級ホテルから高い単価で受注したクリーニングをさらに下請けに出す。その下請け業者では月給1万ルピーから2万ルピーくらいで暮らす人々が働いており、彼らのレベル感とプロフェッショナリズムの下でクリーニングが行われる。結果として、提供されるクリーニングサービスの質はこの末端のレベルに依存することになる。

「下請け文化」の対義語は、「職人文化」といえよう。この文化を強く持っている国の代表は、日本やドイツやスイスである。「職人文化」においては、職人は初めから終わりまでの工程を自分または限定されて訓練された弟子を通じて行う。完璧なものを作り上げるために一ミリの妥協もゆるさずに自らの手とプライドで仕事を完成させる。それが超一流の製品を作り出す不可欠な要素である。
日本の刀鍛冶職人はこの典型である。刀はその材料となる玉鋼を作るところからはじまり、その鋼に熱い炉で熱を加えたものを何層にも折り重ね、刀身を鍛えぬいていく。炉の近くは非常に高温になり、体力的に厳しい。インド的「下請け文化」の発想であれば、「なぜ、マスターである自分がこんな苦労をしないといけないのか。そうだ、ここは下請けのやつらに任せて俺は重要なところだけやろう。なんなら、最後の検査のところだけやって見極めればいい。」となりそうだが、「職人文化」では、それは「手抜き」である。どんなに著名になっても、最初から最後までの工程を自らの手で仕上げることが理想だ。ここにすべてが一流による一流の刀ができあがる。後工程では、波紋をつける作業が行われる。この波紋こそが刀鍛冶の個性がでるところである。最後に出来上がった刀を研ぐところまで自分で行い、やっと完成する。更に言えば、流通させるルートにも気を配っており、独自の限定されたルートでのみ販売しているので、部外者はどこで買えるのかなかなか分からない。
ドイツやスイスの工業製品の信用性や職人文化も日本に負けず劣らず素晴らしい。日本やアメリカの戦車の大砲の砲身はいずれもドイツのラインメタル社のものである。戦車の砲塔といういわば陸戦の主力兵器の最も重要で精密な部分を他国から託されるほど信頼を得ているのだ。ドイツにはマイスター制度という職人育成システムが政府によって整備されていることも有名だ。製品の作成能力のみならず、経営や徒弟の育成などの複合的な役割を持った職人を育てる伝統がある。スイスも言わずと知れた武器や時計などの精密工業製品の製造を得意としており、長年職人によって信頼性の高い超一流の製品を生み出している国だ。
「インドはカースト制の国で、カーストごとに職業が分かれている」という話を聞くと、インドは職人の国のような印象を持つが、このように職人文化が製品のクオリティに反映されている社会と対比してみると、分業化されすぎているがゆえに本来の職人性が発揮されていないという逆説的で非常に興味深いことが分かる。

・結びにかえて:「下請け文化」がもたらすインド民の強み

インド的「下請け文化」が、インドの企業文化に対して何かプラスの影響を及ぼしている部分はあるだろうか。インドの人々と企業に対峙するにあたり、それを理解しておくことも必要である。
社会全体のメリットではないが、下請け文化の主人として君臨している層の人間は、「組織を作って人を働かせ、自分は楽をする」という資本家としてのお手本のような動作を自然体でやることができるし、その仕組みを理解できている。そもそも経営とは、自分がやっていた仕事や思いついたビジネスを、資本を用いて組織を設計し、自分の代わりにその構成員が働く仕組みをつくることである。つまり、これは「下請け」の要素を内包している。逆に言えば、職人気質がある我々日本人はこの考え方を理解して実践することが心理的にも社会的にもインド民と比べて重たい行為であると自覚しておく必要がある。いくら頑張って働いても、仕組み作りとその仕事を自分よりも安く実行できる者に任せることができなければ、資本主義の中でビジネスを回すことは難しい。そもそも資本主義自体が、資本という主人が会社という組織を使って、仕事を我々労働者に「下請けに出しているシステム」なのだから、この点においてはインド民は資本主義社会の管理者として高い適正があると言えるだろう。
 
今回はインドの食からおなかを守る方法を考え、その裏側にあるインドの社会を俯瞰することで、インド的「下請け文化」の存在を見つめた。
インドで苦労する事象にぶつかったら、何がその裏で動いているのかを見つめ、相手の根本的な強みや弱みを発見することは駐在員として常に意識をしないといけない。敵を知り己を知れば百戦危うからずということで今回の投稿を終わりたい。
 
(これで、インドでおなかを守る極意と、インド的「下請け文化」の考察シリーズは終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。)
 

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