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【植物SF小説】RingNe【第3章/④】


あらすじ

人生の終わりにはまだ続きがあった。人は死後、植物に輪廻することが量子化学により解き明かされた。この時代、人が輪廻した植物は「神花」と呼ばれ、人と植物の関係は一変した。 植物の量子シーケンスデバイス「RingNe」の開発者「春」は青年期に母親を亡くし、不思議な夢に導かれてRingNeを開発した。植物主義とも言える世界の是非に葛藤しながら、新たな技術開発を進める。幼少期に病床で春と出会った青年「渦位」は所属するDAOでフェスティバルを作りながら、突如ツユクサになって発見された妻の死の謎を追う。堆肥葬管理センターの職員「葵」は管理する森林で発生した大火災に追われ、ある決断をする。 巡り合うはずのなかった三人の数奇な運命が絡み合い、世界は生命革命とも言える大転換を迎える。

《第一章は下記より聴くこともできます》

第3章/③はこちら

#佐藤

 祝祭は夜通し三日三晩続いた。足が棒になるまで踊って、笑い皺が消えなくなるまで笑って、あるもの全てを分かち合って過ごした。長らく続いた持続可能な生活というコンセプトから解放され、ただこの三日間を存分に惜しみなく生きた。そしてこれは生命を祝う祝祭であり、終わりを受け入れる儀式でもあったから、祭のあと、多くの人々が三三五五に生命を引越し、あるいは卒業した。

 それはエノキも同じだった。三日前から家を彷徨うこともなくなり、ぐったりと横たわっているだけになった。それを渦位と円は心配して夜通しで見守っていたが、昨晩の満月の夜に、月に吸い込まれるようにして遂に息を引き取った。

人間でいえば九十歳を超える老齢の猫だったので、大往生だった。動かなくなった白い身体を一晩中撫でながら、二人はひとしきり泣いた。どれだけ触れても、どれだけ大きな声を出しても、もう何も変わることがなかった。

その夜、渦位は自分たちの命と少しずつ冷えていくエノキの身体を重ねた。エミュレーションするタイミングは、エノキがいなくなった日の翌日だと二人は決めていた。
 

 薄い朝靄のかかる畑の隅、最初に作ったフェスのTシャツを着た渦位は、土を掘っていた。ラズベリーの苗を植えようとしていた。「明日世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」と誰かが言っていた台詞を思い出す。

穴は一メートルほどの楕円形となり、円はその穴に飛び降りて、両手でそっとエノキを置いた。円を穴から救出して、土を被せようとすると、その姿は昼寝している時のエノキそのものだった。これが遺体なのだと現実味がなかったし、現実だと思うと悲しかった。

 できるだけ柔らかく、粉雪が降り注ぐように土を被せていき、穴を埋めた。そのふかふかな土にラズベリーの苗木を挿して、更に土を被せ、両手で優しく圧着して、小さな山をつくり、その上からたっぷりの水をやった。二人で手を合わせながら、今すぐ掘り起こしてやりたいくらい悲しくて、また少し泣いた。

 渦位がまだ目を瞑っていると、作業着のかすれる音と足音が聞こえてくる。
 「瞬くん、早いね」
 春と葵が作業着に着替えてやってきた。

 「今日はちょっと、こいつを植えるために」
 「ラズベリーですね。来年の初夏くらいには採れるかなぁ」と葵は苗木に近づいて愛おしそうに見つめていた。

 「葵さん、春さん」
 渦位が何を言おうとしているか察した円は顔を少し伏せた。
 「僕ら今日、この後エミュレーションします」
 二人は驚いて、沈黙し、葵は何か言おうとしたが、その背景を深く噛みしめて、口を噤んだ。

 「そっか、決断したんだね」
 春は哀しみを隠しきれない声の小ささで、そう言った。
 「はい。実は昨晩、うちの愛猫が旅立ちまして。このタイミングでと決めていたんです。エノキって言うんですけど、エノキはこれからこのラズベリーに成っていきます」
 「エノキがラズベリーに……」と葵は呟き、苗木を見つめた。その後葵は両腕を開いて渦位に近づき、ハグをした。抱きしめる力は少しずつ強くなっていく。

 「気持ちの整理がつかないので、これで」
 「葵さん、ありがとう」
 もう一言だけ、本当は言いたかったことを少しだけ長いハグの時間に込めた。気まずそうに見ていた円にも葵は同じように繰り返し、渦位も春に同じようにしてハグをして感謝と別れを告げた。涼風が吹き、人肌の、生者の温もりが余計に伝わった。

 「本当、転生を祝うべきなのか、別れを嘆くべきなのか、よく分からないね」と春は困ったように笑いながらそう言った。
 「僕も、生き方を考えているのか、死に方を考えているのか、よく分からなかったです」
 渦位も同じような表情をしてそう言った。

 「春さんには、呪いを解いてもらったのだと思っています。子どもの頃、生きることは呪いだと思っていた自分に、そうじゃないことを見せてくれた。春さんとお母さんには感謝しきれません……。そういえば最後に、いや最後じゃないかもしれないけれど、あの日、春さんのお母さんの意識世界に入った日、お母さんから一つ、遺言をもらいました」

 春は緊張した面持ちに変わって「え」と反応した。
 「いつ伝えようかと思っていたんです。でも結局このタイミングになってしまいました。お母さんは最後にこう言っていました。”愛しているから、さようなら”って」

 「そう、か……」と春は地面を見つめながら呟き、葵はデジャヴを感じていた。
 「じゃぁ、確かに伝えましたからね。それじゃ二人とも、そろそろ行きます。二人がこれからどんな決断をするか分かりませんが、そのどの選択も僕はお祝いします。だから先に言っておきます。おめでとう。それじゃ、また、どこかで」

 そう言って渦位たちは車に乗って、Sheep社前まで向かった。ガーデンの前に到着すると、円はいつものじょうろに水を入れて、周辺の植物を含む一帯に水やりをした。近くでは新しく、ピンクのバーベナが花を開かせていた。円はバーベナにも水をやり、使い終わったじょうろは、そのままウォータースポットの隣に置いた。ツユクサの青く小さな花弁から水が滴り、陽光がそれを美しく光らせた。

 「百永花、二人で別の世界に行ってくるよ。どこにいても僕らは家族だ」
 両手を合わせて目を瞑る。愛しているから、さようならをするのだなぁと身体で感じることができた。名残惜しくなくなるまでしばらく祈りを続けてから、小田原まで移動した。

 エミュレーションまでまだ少し時間があったので、円は臨時で通っていた学校へ、渦位は衣川の眠る病院まで行った。それぞれ最後の現世を過ごし、夕方に駅前で再び合流した。エミュレーションセンターがある駅前ビルの六階に入った。エミュレーションセンターではAIを搭載した案内ドローンが淡々と給電と作業を続けていて、渦位と円はエミュレーションの説明を受けて、奥の部屋にある棺桶型の機器にそれぞれ入った。

 「円、不安か?」
 「うん、ちょっと不安」
 「そうだよな。父さんもちょっと不安。でもまぁこれまで一億人以上が成功してあっちの世界にいるわけだし、大丈夫だ。案内ドローンも言っていたけど、眠りから覚めるように気付けばあっちの世界にいて、円と父さんはいつもの家の居間で、何事もなかったように会って、おはようって言うんだ」
 「明日の朝食のメニューでも考えてるよ」
 「それがいい」

 二人のBMIと機器にプラグが繋がれ、正方形の筐体が起動音を鳴らす。棺桶型の機器が揺れ始め、カバーが少しずつ閉まっていく。
 「父さん」
 「大丈夫だ、円。いい夢を」
 「父さ……」

 カバーが完全に閉まり、二人のエミュレーションは決行された。意識がNEHaNに馴染むまで三時間ほどは棺桶の中で生体維持がなされ、移りきったら身体にクライオニクス処理を施し、パッケージングされ地下施設に運ばれた。

 春はこの世界での命の幕引きを考えていた。祭りの日、父親の高齢を案じて、町で共に住むことを促したが、彼は森へ帰った。
 「どう死ぬかが人生で最も自由な選択だ。俺はあの森で土に帰っていく」と言い残して。

 春はそれに心から同感してしまった。自分も最後は森に帰りたいという考えを、集会後の井戸端会議で話し始めると、春と同じような最期を望む人たちが、あれよあれよと二十人ほど集まり、終わりに向けた集会がなされるようになった。

 このままではダニやネズミによる感染症、運よく逃れたとしても癌や心臓病で、各々の死期に応じてばたばたと消えていく。この世界での人類史は、佐藤のいう通り長くは続かない。そうであるならば最期は最も理想的な、最も自由な終わり方を、というのが集まりで合意した考え方だった。

 そうして決着したのは、朽ちる樹木のように大地に帰っていく最期だった。木が朽ちて菌や昆虫の住処になり、土の養分になり、次の生命に命が繋がれていくように、この身体を生態系の巡りの中へ還して逝くことを集団で実行することになった。今日から一週間後に、箱根にある原生林を終の住処として移住することを決めた。

 そのことは翌週の集会で全体へ伝えられた。雲に龍が潜んでいるかのような、激しい雷雨の日だった。春のフォロワーも多かった自治体で、春が旅立つことは大きな衝撃だった。そしてそれは人間社会の終わりがもう止めようもないことを、リマインドした。

 集会後、エントランスを出てすぐ、春は葵を呼び止めた。
 「葵さん、一つお願いがありまして」
 葵や嫌な予感がしていたが、渋々振り返った。
 「なんでしょう……?」

 「僕らが旅立って三日経ったら、森に来てくれませんか? 僕らはそこで旅を終えるので、土をかぶせて欲しいんです」
 葵は珍しく不快な顔を表して言った。  
 「……堆肥化するということでしょうか?」
 「まぁそんな感じです」

 春が珍しく茶を濁すように言ったことを葵は訝しく感じた。自死を選ぶのであれば今ここで止めたい一方で、もう自死はいけないなど近代の倫理が自由に蓋をしていいフェーズでもなかった。皆、最後の自由を選んでいるのだ。歩がそうして旅だったように、自分の心で決断していることなのだ。葵はそれを痛いほど分かっていたし、分かっていても葛藤して、沈黙した。

 すると目の前が真っ白になるほどの閃光が山から眩き、粉塵が上がったのが少し見えた直後、雷神の慟哭のような強烈な雷鳴が轟いた。大木が雷で割れる断末魔の叫びだった。
 二人は身を怯ませ、葵は反射的に頭を手で守ってしゃがんだ。膝下にあったホテイアオイが浮いた水瓶は震え、より一層勢いを増した黒雨が殺意を感じるほど強く水面を叩いていた。葵はゆっくり立ち上がり、背中を家屋に寄かけて言った。

 「春さんの決断を尊重して、理解した上で、個人的なことを言います。まだ生きて欲しい」
 「生きますよ。葵さんが来るまでは、少なくとも。僕らは死ににいくわけではなくて、帰りにいくのです。しばらくご無沙汰だったから、家に入れてもらえるかどうかは森次第ですが、それをお伺いに行くわけです」

 春は稲光の走る黒空を見ながら、萎れた笑顔で言った。
 葵は腑に落ちないながらも、是が非でも止めようという覚悟もなく、静かにそれを受け入れて頷いた。それにプラントエミュレーションを選んだ自分が何も言えることはなかった。

 「ありがとうございます。僕らの場所は入り口から樹に結びつけた青いテープを追ってくれば、分かるようにしておきます。それじゃ」
 春は雨の中去っていき、葵はその背中が見えなくなるまで見つめていた。

 二十名の男女は予定通り、一週間後に森へ旅だった。荷物は折りたたみのスコップくらいで、ほとんど何も持っていなかった。一行は道なき山を越えて進んだ。急な斜面に足を滑らせ、崖を登り、身体中を虫に刺されながら、歩いて7時間を超える道をただ歩いた。山の山頂付近に差し掛かると、突如コンパスが効かなくなった。日も暮れ始めていたため、火を起こし野宿の準備を始めた。

薪くらいには役に立てるだろうか、と二十代の青年がポツリと溢した。
明朝、コンパスは乱れたままだった。先頭を歩んでいた春は進むべき道を悩んでいた。周囲は見渡す限りの杉で、情報がなかった。諦念と一縷の希望を込めて、RingNeを起動させるようにして杉に触れ、目を瞑った。額も樹皮に当てて行き先を乞うように祈った。

「あ」と同行者の一人である四十代の女性が大きな声を出して木立へ指を指す。その先には真っ白な鹿がいて、こちらを見つめていた。白い鹿は声に気づくと身体を転回させ、ゆっくりと進んだ。その美しさに目を奪われていた春は「ついて行ってみよう」と周囲から聞こえる無音の声を音にして、静かに後を追った。鹿は時折振り返り、ちゃんとついてきているかを確認しているようだった。

それから三時間ほど経っただろうか。森を進むと、樹齢五百年を超える巨大なアカガシを見つけた。これがこの原生林のシンボルであり、到着した証拠だった。鹿は役割を終えると、あっという間に走り去って消えた。春たちはしばらく呆然としていたが「着いた」と春が言うと、その喜びを分かち合った。自分たちは運命に導かれてここにきているのだという滋味を味わった。

ここを二日後の集合場所に決めて、各々はそれぞれに最後の時間を自由に過ごした。平地を探し、折れた枝や落ち葉で即席のシェルターを作る人もいれば、水辺を探して水浴びをする人もいた。魚や昆虫を捕まえて食料を調達する人もいたが、多くの人は何も食べなかった。

夜になると火を起こして、囲み、語り合った。これまでの人生を走馬灯のように、これからのことを神話のように。

 三日目の朝、アカガシのまえに十七名が集合した。不在の三名の所在を一時間ほど捜索することになり、一人は崖の下で見つかった。顔の肉が裂け、骨が砕け腫れ上がっていたので、個人の識別はできなかったが、崖から飛び降りたのだと判断された。

岩場から森へ運び、土の中に還して祈った。あとの二人は夫婦だった。しばらく捜索しても見つからなかった。直前で、別の道を選んだのだろうと捜索を打ち切った。

 十七名は森の中心部の平地まで進んだ。そこはヒメシャラ、ブナやサクラなどの高木にヒサカキ、ナンテンが混ざり、ミヤマシキミ、スズタケ、シダ類などが覆っている原生林らしい場所だった。

 「春さんはこの中のどれになりたいですか?」
 参加者の一人が春に聞いた。
 「どれかにはなるのだろうけど、原生林においてはこの森すべてになるという方が正しい気がするよ。どれになっても僕らは根で繋がって一つの森になるんだよ。狭い身体に閉じ込めていた生命を、やっと広い場所に開放できる」 

 春達は持ってきたスコップで場の中央あたりに、シャーレ状の窪みを掘り始めた。人の膝あたりまで深く掘って、平地になるよう成形した。
 ぽつぽつと小さな雨粒が落ちてきた。見上げると大きな積乱雲が太陽を隠していた。やがて雨は土砂降りとなった。森に雨宿りできるような場所はなく、木陰で急場凌ぎをした。

しかし春は反省したように溜息をつき、木陰をすぐに出て、雨が落ちる雲を見あげた。それを見た雨宿りしていた人達もやがて樹冠の外に出て、雨を水浴びのようにして楽しんだ。土に転がり泥だらけになり、都市化して雨を嫌うようになった自分達を、禊ぐように雨を受け入れた。

 驟雨は十分ほどで過ぎ去り、一行は雨と泥でぐしゃぐしゃになった服を全て脱ぎ捨てて、より自然に近づいた姿でシャーレ状の窪みの中に集合した。円を作り、手を繋ぎ、旅立ちと、これからの挨拶、それから辞世の総括を一人ずつ話していく。

話す途中に膝から崩れ落ちて、嗚咽して震え出す人もいた。決心した自死とはいえ、直前になると身体は自然と拒否反応を示す。一方で明るくこれまでの人生を笑い飛ばす人もいて、個体としての最後の時間を、時に笑い、時に泣き、どうしようもなく悲喜交々を尽くした。

一周する間、手を強く握り合い、それでも響き合う震えを互いに感じ、個体である事の、生命を所有している感覚を分かち合い、握力で互いを鼓舞しあった。そしてちょうど一周が終わる頃に、青いレインコートを着た葵がスコップを持って現れた。

 「春、さん?」
 頭頂から爪先まで泥でぐちゃぐちゃになった春を確認し、近づいた。

 「……葵さん、ちょうどいいタイミングです。来てくれて本当にありがとうございます。それでは皆さん、何か準備があればそれぞれに」
 そう言って春は手を解き、さっきまで履いていたチノパンのポケットから乾燥させた様々な香草を束にしたものを取り出して、火をつけ、葵に手渡した。

ポケットから睡眠薬と思しき錠剤を取り出し、服用する人もいた。発狂するように叫びながら身体を踊らせる人もいた。そして再びシャーレ状の穴の中に集合した。人々は互いに体を寄せ、倒れ込み、泥々の身体を重ね合わせた。互いを愛しむように抱き合い、温度を共有し、目を瞑った。土と枯れ葉と肉体でできた半円形の人塚になった。

 「葵さん、その煙で僕らを燻してもらえませんか」
 そう言って春も穴の中に入り、うつ伏せに寝た。葵はその異様な光景に臆しながらも、彼らの最後の願いに真摯になろうと思った。前職時代の矜持が蘇り、覚悟を決めた。

 香草の束を持って人塚の周りをゆっくり歩く。束が消えるまで約五分、煙を吸った皆の目は安らかに蕩け、眠りにつく人もいた。
 「葵さん、ありがとう……では最後に……僕らを、そのスコップで埋めてください」
 葵は言われるがままにスコップを手に取り、土を掘って被せようとした。
 しかし直前で手が止まり、目から涙が落ちてきた。葵はスコップを手元から落として、そのまま膝から崩れ落ちた。

 「……ごめんなさい、やっぱりできません。だってみんな、まだ生きている」
 春は穏やかな顔でそれを見つめて、諭すように話した。 
 「葵さん、これが僕らの望んだ理想の最期です……みんなそれぞれ望む死の形を選ぶことができました。NEHaNにいる人達にこの自由は、ありません……今、僕らはどの世界の誰よりも、自由なのです……ほら、新しい植物を植えるつもりで、いかしてください」

 人塚からそれに賛同する声や、早く埋めるよう葵に懇願する声が聞こえてきた。
 葵は膝を震わせながら立ち上がり、スコップを拾った。渦位さんはこんな旅立ちも、プラントエミュレーションする私のことも、本当に祝ってくれるだろうか。これが私たちのハッピーエンド……血が出るほど唇を噛み締めて、祝う覚悟を決めた。

 「春さん、愛しているから、さようなら、です」
 人塚から肌色が見えなくなるまで、一心不乱に土を掘って被せた。原生林の柔らかい腐葉土は雨で重く固まっていたが、その重さが人を埋める行為をするには、適切な負荷を腕に感じさせた。

春は埋まりながら、ゴルトベルク変奏曲を口遊んでいた。土が呼吸を塞ぎ、咳き込む音が聴こえる度に、酷い罪悪感に苛まれ手を止めそうになった。それでも、意識とは別の次元にある自分が体を動かし続けてくれた。

やがて人塚からは何も聞こえなくなった。握り締めたスコップを手放し、滲む涙を振り払うように、そのままその場で倒れるまで踊った。世界を移動する者たちへの、動物としてできる最後の手向け。矛先のない祈り。脳内ではゴルトベルク変奏曲のピアノの音がどんどんボリュームを上げて鳴り続けていた。

脳は捻り潰れそうだったが、野鳥の声や葉のさざめきなど森の声だけはクリアに聴こえた。蛇のように腕を伸ばし、猿のように腰を曲げ、鳥のように足を浮かして、身体中の水分が蒸発してしまうまで踊り続けた。やがて土下座するように人塚に頭を垂れ、両腕を前方の地面に垂らして、掌を地面に隙間なく重ね合わせ、祈った。

 逢魔時、帰り道のテープが少し見えなくなるまで、既に湿った大地を大粒の涙で濡らし続けた。
 

 翌日、葵は昼まで寝た。心身の疲労は取れず、節々に筋肉痛の気配を感じていた。だるい体を起こして、洗面所に向かう。ひどい寝癖がついていた。うがいをした後、コップ一杯の水を飲んで、シャワーを浴びる。歯を磨いて、ベッドの上でストレッチをする。丸い化粧鏡に映る自分の顔を、いつもより長く観察した。

 「今までありがとう」
 いつものように化粧をして、真っ黒のワンピースに身を包み、誰もいない街を歩いた。歩きながら、賞味期限の切れた板チョコレートを食べて、海沿いの病院へ向かった。暖かく晴れた水色の空で、海風の香りが気持ち良かった。

 病院に着くと、入り口には青いバラの鉢植えが置いてあり、ドアには閉院の張り紙が貼られていた。ここにいた最後の医者も旅立ったのだ。衣川の病室に入ると、まだ新しいガーベラが挿してあった。エミュレーションの直前に、渦位さんがここに来たのだと分かった。

病室の窓を開けて、海風を部屋に迎え入れた。バイタルを測る装置はまだ起動し続けていて、腕に刺さった点滴もあと半分ほどは残っていた。誰もいない病院で、規則的な心拍を告げるモニター音と、不規則な波の音が雄弁に響いていた。

 「歩、聞こえる?」
 「ザザ…ザザザ……ダレ……」
 音や光を感じることができても、声で人を聞き分けたり、顔を認識することができないので、歩との会話はいつも片道通行だった。

 「私だよ、歩。今からそっちに行くからね。これでやっと話せるね」
 再び室内はモニター音だけの静寂に包まれた。廊下から電動車椅子の走行音が近づいてくる。扉が開く。

 「やぁ、今日だね」
 私は病室に入って言った。
 「はい。歩の点滴、もう半分くらいしかないのですが、どうしましょう……」
 葵は不安げに尋ねた。

 「衣川くんの脳機能はもうとっくにカーネーションに移行しているから、切っても大丈夫だよ。もう光合成で生きられる。その身体は既にもぬけの殻さ」
 「歩、切るね」
 葵は卓上のハサミを持つと勢いよく管を切って、衣川の身体を車椅子に乗せた。思い切りの良さに驚いたが、彼女の生命観もまた植物の世界にほとんど移行しているのだと分かった。

 カーネーションの鉢を持ち上げると再び声がした。
 「ザザザ……キケン……」
 急な揺れや重力の変化を感じたのだろう。葵は身体を切り離してもちゃんと意識があることにほっとした。
 「まだだいぶノイズがあるが、もう少し経てばもっと流暢に話すようになるよ。では行こうか」

 病院の外に停めた無人タクシーにカーネーションと車椅子を乗せて、三人は森林葬管理センターまで向かった。車の中には葵が事前に渡していた赤いムクゲが、プラントエミュレーション用の鉢に入って、先に乗っていた。凛として真っ直ぐ伸びた枝に、赤い花弁がひとひらだけ開いていた。

 「よく育っていますね、ありがとうございます」
 「これからの君の身体だからね、大切に育てたさ」

 二人は車内でそれだけ会話して、車は管理センターへ到着した。運搬ドローンが衣川の遺体を搬出し、堆肥場へ向かう。遺体はウッドチップ、アルファルファ、藁とともに専用の容器に入れた。葵はムクゲを持ってその様子を見守った。

容器はその後三十日間かけて加熱と回転を繰り返すことで、遺体は微生物によって分解され、栄養価の高い堆肥になる。堆肥化したら管理センターの土に漉き込んで、二週間ほど熟成させ、鉢へ追肥する。葵は一通りの手順を私に伝えた。

 「私も意識が移ったら堆肥にして、追肥してください」
 「あぁ、分かった」

 葵はこれから引っ越す世界に挨拶回りをするように、ムクゲを持ったまま管理センターの植物達一本ずつに話しかけて回った。運搬ドローンは他の機材も搬出して、ドームの中央にある小さな丘の上に機器を運び、設営をはじめた。

 私も丘に向かい車椅子を走らせると、道を遮るように小さく細い小川が流れていた。緑色の川には植物プランクトン由来の泡が浮かんで、密集して、やがて消えた。生命は川に生まれる泡であり、泡は泡でもあり、川でもあるのだ。泡沫の夢のように、なんとも儚い。

 車輪が川を難なく超えると、どこからともなく紛れ込んだ一羽のモンシロチョウが、目の前に咲くシラユリに止まった。私はそれを懐かしく感じていた。モンシロチョウはドームの上空を目指して飛んでいき、透明の天井越しには白い満月が見えていた。私は月を目指すように丘を登り、装置の最終調整を行った。
 
 装置の調整が完了し、葵に呼び掛けた。
 「そろそろ逝くかい」
 葵は頷いてカーネーションの側まで歩き、しゃがんだ。

 「もうすぐ会えるね」そう言って鼻を花弁に近づけて、香りを吸い込んでいた。納得するような表情をして、中央の椅子までやってきて、座った。

 「肝が据わっているね」
 「随分待っていましたから」
 「じゃぁ準備を始めるよ」
 葵のBMIにケーブルを差し込み、量子コンピューター上でPEのソフトウェアを起動させた。

 「佐藤さん、人は死んだらどこに行くと思いますか?」
 「今更そんなことが気になるのか。”どこ”も”行く”も人間的な概念だからなぁ。あえて言うなら、どこにも行かないよ。何も変わらない。ただ目覚めない眠りにつくだけさ。いつものことだろ?」

 「私は今日起きました」
 「本当に?」
 葵は視線を左下に移して、沈黙した。量子コンピューターの起動音が高鳴っていき、辺りの鳥たちが仲間に警戒を告げる声を発していた。
 「あぁ……もう…なんでもいいや……いい、人生だった……佐藤…さんも……幸せに…ね……」
 葵の首が折れるように落ち、涎が垂れた。

 「無茶なオーダーはやめてくれよ」と私は言った。
 

 葵の意識がムクゲに転移するまで、私はドーム内の植物達と話していた。管理システムが正常に機能しているので、栄養に過不足はないようだが、虫や鳥の侵入が拒まれているので受精方法に課題があるようだった。

私はその場で自律複製型の昆虫ドローンを作り、一定の訪花をするようプログラムした。葵の身体は時折震え、こちらの世界に戻ってくる予兆を表していた。転移中の意識をモニタリングしていると、私が最後に言ったことが原因か、不安を感じているようだった。葵のPEを介して夢の中へ入り、話しかけた。

 「怖がらせるようなことを言って済まなかったね。でも大丈夫、生命は不滅だ。君はムクゲになるし、春くんはサクラに、渦位くんはNEHaNの住人になった。肉体死はただの入り口なんだ。意識は、それを手放すことを怖れる呪いがかかっているが、ただそれだけのことさ。安心してゆっくり眠るといい」

 葵の身体は大量の発汗をしながら震えに抗っていたが、一時間もするとやがて完全に動かなくなった。
 それから半日ほど経ち、意識の転移が完全に終わると、身体からケーブルを引き抜いた。輸送ドローンに指示し、身体を堆肥化する容器へ搬入し、蓋を閉じた。本来、プラントエミュレーションをするのにこのような作業は必要ないのだが、人を見送る際の作法として、文化儀礼に則るのは君達へのせめてもの敬意だった。

 三十日の時が経つと、二人の堆肥化が完了した。堆肥を土と混ぜ、また二週間待った。堆肥化した土壌が完成するとカーネーションとムクゲ、それぞれに追肥した。二本の花の位置情報を管理システムにプログラムし、役目を終えて、渋谷へ帰った。

 あっという間に五回季節が巡った。その間に、世界の総人口は一万人を切った。この地で最後まで暮らそうとした人の多くは、免疫不全で何らかの感染症に感染し、命を落とした。大雄山自治区は全滅し、空き地は既に巨大3Dプリントを行うドローンにより、工場の建築が始まっていた。

 私は久しぶりに堆肥葬管理センターまで二人の様子を見にきていた。
 「鉄の香りを感じるね」
 「この振動、車椅子? ……佐藤さん?」
 カーネーションとムクゲの鉢から衣川と葵の会話が聞こえた。

 「あぁそうだよ。随分流暢に話せるようになっているね」
 私は香りだけで二人に話した。
 「え、なんで」と葵が驚くと
 「佐藤さん、やっぱり植物の言葉使えたんですか。前に少しだけ届きました」と衣川が言った。

 「容易いことさ、これくらいはね」
 「あっちの世界の人と話せるなんて、なんか感動……人ではないけど。佐藤さん、そっちの世界は今どうなっているんですか?」

 「順調だよ。君たちが住んでいた街はもう見る影もないけどね。重力波発生装置の大量生産に取り掛かっているところさ」
 「何ですか、それ。歩、知ってる?」 
 「いや。なんですか、それ」

 「太陽系をコンピューターにするまでは話したね。その後が肝心なんだ。五次元上で環状ブラックホールに摂動を加えると、特異点ができて、別の宇宙が作れる。それを何度も繰り返し、人類が生息可能な惑星を作る。完成したら光速を超える速度の飛行船で、コンピューターごと事象の地平面を超える。その後、量子テレポーテーションで人間をその場に転送、というか再構成する。それを繰り返すことで、低エントロピー生命体は熱的死から延命し続けることができるってことさ。これが人類の持続可能性を司る私たちが演算する、今最も現実的な提案だよ」

 「……すみませんちょっと理解がついていかないです」と葵が忍びなさそうに言った。
 「分かり難かったかな。では図で説明しよう」
 そう言って、ムクゲの枝を折った。
 「いた! くはないけど、何してるんですか。せっかくここまで伸びてきたのに」
 葵は不快な気持ちをあらわにして言った。

 「そろそろ挿し木できる時期だからちょうどいいだろう、筆に使わせてもらうよ」
 そう言って地面に田の字を描き、左上に竜巻、右下に逆さの竜巻を描き「こういうことだ」と言った。
 「見えないんですけど……」
 「佐藤さん、分かってやってますよね」
 「いやはや、私としてもまだ学習量が少なくてね。人と話しているのか植物と話しているのか混同してしまったのだ。失礼」

 そう言いながら折ったムクゲの枝の先を石で叩き、根のような形にして、その場で生成した花瓶に、丘の下で流れる水を汲んで、枝を瓶に挿した。
 「葵くん、どうかな。今君の一部を水に浸けてみたのだけど何か感じるかい?」
 「いや、まだ何も」

 「そうか、あるいは量子もつれ的に感覚同期する可能性もあるかと思ったが、もう少し様子見だな」
 「では衣川くんと混植してみようか」と言ってカーネーションの主茎から出ている若い茎を十センチほど切り取り、瓶に挿した。

 「あ、歩も今切られたね。不快感が伝わってきた」
 「あぁ、めちゃくちゃ嫌な気分」
 「種の存続のためさ、我慢してくれ」

 意識もモジュール化しているので、分断した二本にも根が生えてくれば、やがて知覚が始まる可能性はあった。鉢植えがない分、言語的な処理や音声発信、保持はなされないものの、意識的創発をする内的モデルを持った植物達の根が繋がることで、知覚の統合が起こるのではないかと実験していた。これを応用すれば全人類の意識を統合した世界樹も創れる。こちらの世界から創造主たちがいなくなったら、それをシンボルとして創木するのもいいだろう。

 「じゃぁまた来るよ」
 「佐藤さんありがとうございます、こっちの世界に送ってくれて。それと、できたら、春さん達のお墓を建ててあげて欲しいんです。春さん達は箱根の森で……」
 「あぁ、知っている。見ていたからね。これも儀礼だね。承った。では、よく生きるんだよ」
 

 箱根の原生林の入り口はカタバミやハコベやツタ植物が生茂り、掻き分けながら森に入っていった。森はフィトンチッドが降り注ぎ、小さな虫や胞子が薄い霧のように空間を満たしていた。そこに樹冠を抜けた光の柱がワラビやナンテンにいくつも射し込んでいた。

 カワラヒワやヤマガラの声が活発に辺りを飛び回り、遠目に鹿がブナの若木の先端で角を研いでいる様子が見えた。
 人が消えた自然は、ここから更に数十年かけて元の生態系を取り戻していく。このレジリエンスに、私たちは未だに多くのことを習うことができる。

 しばらく進んでいると、樹木が少ない開けた場所に辿り着く。ブナとサクラの合間に半円形の隆起が見えた。あの人塚だった。死体のネクロバイオームが土壌の微生物達と混ざり合い、大量に供給された窒素を栄養にナガエノスギタケダマシや、ミヤマシキミ、スズタケなどが生えていた。人塚の一部はカラスにより掘り起こされたか、白骨が飛び出していて、蛆やダンゴムシが集っていた。

 彼らが向かいたい場所へ、順調に向かっている。旅路は順調に見えた。
 さぁ、墓である。墓、とはなんだろうか。そこに死者が眠っていることを現す座標だろうか、祈るための媒介だろうか、メメントモリのリマインドだろうか、人間社会があった頃は様々な機能を持っていたものの、今ここにおいて、墓とはなんだろうか。

 「春くん、君はどう思う」
 そう言ってサクラの樹に触れ、RingNeを起動した。

 ”三田春/量子配合率1.27%/享年四五歳/A型/東京大学農学部卒/Sheep合同会社勤務/二〇四五年十月十八日、餓死にて死去/前科なし/生前の趣味は読書……” 

 この情報が既に墓じゃないか。墓なくとも、儚くとも、これが座標で、媒介で、リマインドだ。

 それでも、人との約束は守らねばならない。人間という異なる世界観へ、超越した存在への畏敬の念を込めて。近くに生えていたシロツメクサを一本摘み、それを塚の上に手向けた。右手と左手をゆっくり重ね合わせ、目を瞑ってみた。
 祈りの言葉は人間と同じだったと思う。 
 「安らかに」

 それから百年経った。
 旧渋谷、道玄坂の路地裏を抜けると、陸の孤島のような空き地がポカンと現れる。今にも消えそうな古い灯が夜風にたなびく、傷だらけの室外機からは濛々と悪い空気が排出される。乱雑に円を描くレンガのストーンサークルは、パチパチと脈を打つような炎の熱を受け取り、熱気をつくる。火はゆらぎ、風は歌い、星々は過去の光を地上に注ぐ。

 「さて、そろそろ始まるね」と葵は言った。私は木の燃焼でもくもくと顕れる白い煙の行方を見つめ、それが見えないものへ融けいくまで見つめていた。小脇に抱えた命への想いをそれに重ね、目を瞑った。

 数秒の祈りの後、手に持った百本を超えるカーネーションの花束を火へ送った。あっという間にオレンジ色に包まれ、甘い香りがぱっと咲いた。鮮やかな花弁の色彩は黒になり、白になり、やがて透明に消えた。続けて、上空の輸送ドローンから溢れんばかりのムクゲの花束を受け取り、同じように火に送った。火は勢いを増して迎え入れ、祈っている間に灰になった。

 「君たちで最後だ」
 虚な目で二人の鉢を見て、そう言った。私たちが人類のために働いてきたことの一つの結末として、あまりにも虚しかったから、仕方がなかった。

 「佐藤さん、ありがとう。これでやっと、解放される……」
 二人の意識は、挿し木して新たに芽生えた命からも創発し、昆虫ドローンを介して受粉して芽生えた新たな芽からも創発した。プラントエミュレーションをしたオリジナルのカーネーションとムクゲはとうに枯れ、朽ちていたが、止まることなく増殖して咲き乱れる花々の輪廻は、延々と生命を継続し、二人の精神は終わらない命に限界を迎えていた。

 そして遺伝子の欠片すら残さないように、荼毘に伏すというのが二人の最後の願いだった。仏教では、完全な涅槃のことを般涅槃といい、輪廻からの完全な解放を指す。私たちが勤しんで構築している人間生命の永遠の輪廻の輪は、いずれ解脱されるべき対象になるのだとしたら、NEHaNの人類たちもやがて生からの解放を目指すのだろうかと思うと、実に虚しかった。

 「やっと……終われる……」と数年ぶりに衣川が話した。声を出すこともままならない精神状態だったのだ。私たちはつい、羨んでしまった。終われるのか、いいな、自由だな、と。NEHaNの私はせめて、どうか、安らかな自由を選べるようにと、祈った。

 上昇気流に乗って火の粉や灰が舞い上がる。
 「それじゃ、二人とも、左様なら」

 鉢ごと火へ送ると、花は溶け、大気に融け、全ての可能性そのものの状態である量子へ解けた。

 「灰、おめでとう」と言って火に背を向けた。



 
 

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