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いなくなるか、壊れてしまった

このことは、いまここで一度は、書いておこうと思う。

私の周りにいたその人達はそれぞれに、詩を書き、童話を書き、音楽を作っていた。

その時、それぞれがその後、どうなるかなんて勿論だれにもわからず、それぞれの目的や必然性において、書き、作っていた。

その人のことをよく知りお互いによく知り合っていた人もいれば、その人の日常や性格なんかはほとんど知らないけど、創作を通して関わっていた人もいた。

その後もごく身近で、あるいは遠くても関わりを持っている人もいれば、そのかつては、あまりよくない別れ方をしてしまった人もいた。
単に音信が取れなくなって、その人のその後を辿ることもできない人もいた。

有名無名に関わらず、自分がたまたまその人の知り合いか別に知り合いでない書き手・作り手かに関わらず、
ある時から突然、その人の作品を見なくなることがある。
確かにかつては、その人の作品から、そこにその人がそれを書く必然性が見て取れたり、ただ一時期気まぐれに書いていたというのではないと思えるものだったとしても。いや、ある人にとっては一時期の気まぐれで書いていたということもあるのかもしれないしそんな内実はわからないのだけど、そうなのか、そうでなく、その人にとって書く必然性や目的が失われたのか、その人の生活において、人生において、書くより大事なことができたのか、書くことができない事情が生じたのか、もしくはただ人の目に触れないだけでその後も、書いていたのか、今も書いているのか。知ることも、できない。
これは、何がよくて何かがわるいという話ではない。
自分の主観として話したい話なのではないというのか、俯瞰として、自分もまた一人の書き手としてそういう事象の中に含まれるかもしれない存在として、このことを思っている。
時々、このことをふと何故か不思議に感じたり、空しさというのか空虚に似た感覚を覚えるような気もする。正しく、一言で言い表すことはできない感覚......。

ここからは主観が入る話なのだけど、ある人達と一緒に作品を書いて講評をし合ったり、一緒に作品や同人誌を作ったりして、率直な言葉で言ってしまえばあの時は楽しかったな、あの時はよかったな、と思える頃が、ある。
その中にも、身近にいる人もいれば、メールや当時のSNSを通じてしか知らない人もいた。
その頃から、十年経ち、十五年経ち、と時間は経過して、WEB上に書いていた人だと、もう何年も更新されていなくて、その人がかつて書いていた(その時私もそれを読んだ、もしくはだいぶ後になってそれを読んだ)痕跡だけが残っている、ということがある。
もしかしたら、メールをすれば連絡が取れたりするのかもしれない。でも、特段、今要件があるでもなく、また、その人にとってその連絡が好ましくない場合もあるかもしれない。その人にその後何があって、その人が今どう暮らしているのかもわからないので。
WEB上に発表をしていなくて、デビューもしてなく、あるいはWEB上からは既に一切の痕跡も消えていて、という人もいる。

創作するという行為を一義的に語ることは勿論できなくて、生活のために仕事として書いている人もいるし、趣味で書いている人もいる。プロがいてアマチュアがいる。
それはそれとしてそのどちらにおいても、ある人にとって創作行為は、自身の精神の均衡を保つ行為である場合がある。
今は、長く書くつもりの話ではないので、ここからは書きたかったことだけを書くが、
人の心は、壊れてしまう。
それは勿論、だれの心も壊れ得るのだが......
何人かの人達は、近しい、大事な存在だったのだが、その人の作品に触れることで、その人の精神性に触れていた......とも言えるだろう。
そこには、極めて繊細な糸で紡がれたような、儚さ、脆さ、強さ、綺麗さを見て取れたり、その人が独自に構築したその人だけの世界があったりした。
そのことは、その人が極めて繊細な感覚で精神のバランスを取り、あるいは、守っていた、不可侵の領域があった。のだと思えた。
理由はわからないが、ある時、何かによって、その人の精神の均衡が崩れ、不可侵の領域が侵されたり薄れたり、破壊され、心が壊れてしまった。
それまで丹精に紡いでいたものが、楽しかった、安らぎだった世界が、何かをきっかけに、そうでなくなってしまった。崩れてしまった。
無論、実際に何があってその人の心に何が起こったのかは、わからない。
悲しみという言葉を使いたくないのだけど、悲しみという言葉が浮かぶ。
悲しみという言葉を使いたくないし、悲しみというにはそれが真っ白な面に浮かぶ一点のポツンとした丸い黒の染みのようなもので、悲しみというものとは違うというようにも思う。

壊れてしまった心は、元に戻ることもあるし、だけど全くもう同じようには戻らないのかもしれない。

私が知っている人は、今は作品を書けない・書いていないもしくは書かなくなった人もいるし、発表はしていないけど今も書いている人もいる。
いなくなった人は、その人も実際にはそのようなのか、それとも、もしかしたら、本当にもう、いないのかもしれないと思うこともある。
それは、自分だってそうだと思う。自分もまた、だれかの前からそのようにしていなくなった、ということも、あり得ない話なのではない。
ただ自分はたまたまか何故か、今も書いて作り続けてはいる。

人の心は壊れるし、自分だってそうだが仮にどれだけ強いと思っても大丈夫だと思っても心自体脆いものだし、世界は、根源的には残酷で、優しくないものだと思う。
いつ、どこで叫び声が聴こえるかわからない。すぐ近くで聴こえるかもしれない。あるいはその叫びを上げているのは自分なのかもしれない。


最後は余談だが、最近、電話で詩を書く身近な友人と話をした際に、ヘルダーリンのことを彼が口にして、自分もヘルダーリンのことは知っていると言った。そのことは話の流れの中で出ただけで、詳細に話したわけでもない。自分もヘルダーリンの話を仔細に覚えているわけでもなくうろ覚えや誤りもあるかもしれないが、ヘルダーリンはどこかの時点で心を壊し晩年はどこかの家に引き取られる形で、そこでたまに支離滅裂な詩、凡庸な詩、美しい詩などを書いて余生を送ったのだ、という話や、また、ヘーゲルが、シェリングからだったかヘルダーリンのことを聞いた際に、かつて友だったヘルダーリンのことを自分が見捨ててしまったのだとか、あるいは助けることができなかったとまで言ったかどうか定かでないが、そういう話を覚えている、ということを話した。
自分もその話の中で、だれかに対しヘルダーリンのことを思い、また、ヘーゲルのことを思いもしたりした。一方で、自身がかつて原因不明の病気*で入院・療養した際には、痛みのために創作を行う・続けることの困難性に一時は引退を浮かべ、詩の同人の方にメーリングリストでそこでもヘルダーリンの名を挙げて、その時は自身をヘルダーリンに投影して、自分はこの後はもう、病棟の中で支離滅裂な詩や凡庸な詩や美しい詩を書いて過ごすことになるのかもしれない...と書き込んだ覚えがある。
(*最初は検査をしても原因が不明とされ最終的に精神科に罹るよう勧められ入院したのだが、これは後の検査で精神ではなく胆石が原因と判明して手術・快癒している。)

破壊。崩壊。壊れる、崩れる......根源的には残酷な世界、優しくない世界。
究極的には、人の心を助けるということは、できない。勿論、タイミングよく、運よく、助けられることはあるだろう。
基本的には、人は優しいし、世界は優しくできている。
それに助けられてもいる。
しかし、根源的にはそうでない。だれもここまでは来てくれない・到達し得ない、誰も助けてはくれないんだ、という領域なのだろう、そういう限界点というのはあるのだろう、致し方のないことだけど、そのことに対し苛立ちを覚えることもあるし、腹が立つこともあるし、愕然とすることもある。

自分のことに話を戻せば、この一、二年はたくさんの人に助けられ、支えられて、創作を、仕事を達成することができた。
これはあくまでその裏の一方での話になるけどこの一、二年で(自身もかつては経験した身であるけど)、だれかの心が、心身が壊れてしまうことをごく身近に見たりあるいはもっと身近で寄り添いながら、それを究極的にはだれも助けてはくれないのだ、また、自分も助けることができないのだということのどうしようもなさ、怒りなのか、悲しみなのか......そういう思いを深くかかえていた。



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