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記憶の定着に欠かせない「退屈」

およそ30年前。僕が入学した小学校の1年1組には、30人のクラスメイトがいた。そして、その30人の名前と、誰がどこに座っていたのかを今でも鮮明に思い出せる。

この話を同窓会などですると驚かれる。けれど、むしろ僕は人によって記憶の濃淡がこんなにもあるのかと驚いた。

あの年、あの季節、あの教室で、ひとしく新入生として同じ空気を吸っていたのに、覚えている景色が全然ちがうのだ。

べつに僕の記憶力は特別ではない。暗記は苦手で世界史で7点を取ったこともあるし、3つ下の弟に神経衰弱で一度も勝ったことがない。今でも電気を消し忘れて、よく妻に怒られている。

昔のことを妙に記憶に憶えていることに理由があるとすれば、とにかく歩くからかもしれない。

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高校までを近畿のある地方都市で過ごした。高校を卒業すると地元を離れてしまったが、帰郷のたびにあてもなく歩き回っている。何時間も。

疲れては公園のベンチに座り、1時間ぐらい行き交う人を眺める。側から見ると不審者で通報したくなるかもしれないし、僕自身も小学生の頃、公園でずっと座っているオジさんやおじいさんが不思議だった。

「ヒマなのかな?」と。

年をとって分かったのは、ただボーッとし何も考えていないわけではないんだなということだ。「何も考えない」を1時間も続けられるほどの集中力が僕にはない。

おじさんたちが興じているのは、理系っぽく言えば「脳のデフラグ」、少しだけ詩的に言えば「起きながらにして夢を見ている」のだ。

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「記憶」は新たに入った情報を、これまでの記憶と関連づけることで作られていく。
3.141592…みたいな一見すると無機質な記憶でさえ、「3」や「1」や「4」という記号、そして「さん」「いち」「よん」という慣れ親しんだ音の刺激が記憶を支えている。

新しい刺激を、これまでの記憶などを関連付け整理し、格納していくのが「睡眠」の一つの役割らしい。その記憶のファイリングの最中に、脳を一瞬通過する残像のようなものが「夢」なのかもしれない。

公園に佇んでいるオジさんたちは、この1年で出会った人、別れた人、衝撃的の出来事、忘れかけていた出来事を、過去と関連付けながら整理しているのだ。

20年前の自分は、この景色をどう見ていたっけ。今の自分は、この景色をどう見ているだろう。おなじ景色がちがうものに見えたとすれば、そこに私が生きてきた20年の「意味」が見出せるはずだ。そんなことを信じながらボーっとしているのだ。

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記憶は単なる記号ではない。
五感をフル動員した、もっと感覚的なものなのだと思う。

たとえばクラスメイト。後ろの席にはK君がいた。ある時、ケンカをして、しばらく「後ろを向いてやるものか」と意固地になっていたから覚えている。

一番前の席にはいつも姿勢が悪かったA君がいた。あんまり姿勢が悪いから、先生に1メートル定規を背中に入れられていた。子どもながらに、「面白い解決策だな」と感心した。彼のとく来ている服の色は赤だった。

A君の隣にいた女の子は、A君とは対照的に姿勢がよく背が高かった。となると、あれはRさんだ。そんなふうにして、クラスメイト30人の名前と席が順番に埋まっていく。

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ボーッとするといえば、仕事に煮詰まった時に、なぜか風呂に入っている時に妙案が思い浮かぶことがある。

なぜだろうか。これについて、散歩しているとき僕の中で一つの仮説ができた。それは、スマホを持つことができないということ。そして、景色が圧倒的につまらないことが理由だ。

刺激に満ちた、1秒も飽きないさせない世界に私たちは生きている。そんな中で贅沢なほどに退屈な場所が風呂なのだ。

その中ではインプットすることも、画面越しに誰かと繋がることもできず、ただただ自分の記憶と向き合うしかすることがない。いわば、風呂では強制的に「白昼夢」を見せられるのだ。

思い出そう・考えようとも思わず、自分の見ていたモノをまるで他人の夢でも見るかのように、客観的に・虚心坦懐に眺めることがアイデアを生むのではないか。

今年の目標が決まった。
スマホを捨て、白昼夢を見よう。


人生にもっと「余白」を。

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