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現代思想への片思い(下)

承前

「また重箱の隅を突いてら」と呆れないでほしい。好きなんだから、真剣である。些細ではなく大事な点だとも思っている。

気になる「あばた」をあらためて書けば、一読して「何で?」と首を捻る選択が僕の目を引くことである。

なぜ永井均氏は読者の関心を引くべき一文目に、すぐに反証が出そうな命題を選んだのであろうか。どうして飯田隆氏は、機械が人と見紛う言葉を発し始めた事実を抜きにして、言語とは何かを語れると判断したのであろうか。

確かに養老孟司氏の目の付け所は秀逸である。そこからどんどん展開する議論はスリリングで、30数年前に読んだ自分は大いに興奮した(記憶が微かにある)。でも、根っ子にある前提にひとたび疑念が差せば、築いた楼閣全てが砂に沈むかに見える。

こうした細部が気になる裏には、一つの疑念がある。ひょっとして現代思想界の中枢には、科学の知見に無頓着な傾向が潜んでいるのではないか。

科学との懸隔をうかがわせるのが、現代思想のテクストにおけるフロイトの扱いである。自分の知る限り、心理や脳の研究者の間でフロイトの諸説は多かれ少なかれ否定されている。フロイトの書物が性への扉を開いた僕にとって悔しい限りだが、今では読む本、読む本、フロイトは時代遅れ、あるいは過去の遺産、しかも負の、と書いてある。これとか、あれとか、これだとか。まあ、本の選択にちょっと偏りはあったとしても。

ところが、彼の地でフロイトはいつまでも現役で、人間の深層心理を知り尽くした権威のままらしいのである。科学で否定されながら、思想ではずっと大物でいられるのはどうしてなのか。

もしかすると、科学が「客観的な事実」と称するあれこれは、実は個人の内側に閉じている主観世界とは相容れないというのだろうか。たとえ「夢」という同じ単語を使っていても、一人一人の心の中では全く別のものを指していいのだと。

永井氏の文章にある「夢ではない現実の世界と呼ばれているものは、実のところは、その内部に登場する(という建前になっている)ある一人の人物から(だけ)開かれ、実のところは、その人が体験することに尽きている(というあり方をしていざるをえない)のではないか」(Kindle版、p.12)とは、そういう意味なのか。

はたまた「客観的な事実」を振りかざす行為に、欺瞞が潜んでいるのであろうか。奔放な思考の流動を堰き止め、澱ませる、ファシズム的な何かが。

直情に任せて筆を走らせるうちに、不毛な隘路に迷い込んでしまった。他者の心を自分の頭で読もうにもわかるはずがないことは、十分わかっていたはずではないか。そもそも儘ならぬ思いの相手は気まぐれだと決まっている。

それでも知り得ぬ胸の内を勘繰ることはやめられない。不可解な仕草の裏側を勝手に想像して一喜一憂する。それもまた片恋の楽しみなのである。

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