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M君と南朝

「市隠」というのは好い言葉だ。市井の隠者という意味だから、町で暮らしているふつうの人々はみな市隠だ。富と権力はなくても、楽しむ術はたくさんある。にもかかわらず、富と権力を特別視した世の中だったからこそ市隠なる語が生まれた。

東京にも市隠はいるだろう。現に、私の親戚も東京に暮らす。小金があるから東京に住めるが、年寄りばかりになってしまった。富と権力を求めて、人は東京に出る。よって東京の社会では、若者と派手な者がまん中にいて、市隠たちはささやかに路地裏で暮らしている。

私の友達はみな市隠たちだ。大学は東京に出たが、私も含めて東京の階級ピラミッドの外にいる。地方で目立たず己の生計を営む。能力や知識がないわけじゃない。それぞれの得意分野で専門家顔負けの知見を持っている。能力と知識が富と権力に結びつかないだけだ。

東京にも昔の友達はいるが、もう友達じゃない。市隠以外の東京の人の価値観は富と権力だけだ。強弁しているようだが、世の中には市隠と市隠じゃない2種類の人しかいない、と定義したなら絶対的に正しい。富と権力に縁がないから私も市隠だ。こういうことを実感するのは正月だ。年賀状が市隠じゃない東京の人とは途絶えてしまう。それほど忙しいか、もう年賀状などは出さないか、のいずれかだろう。東京は日本じゃない……かもしれない。

M君はまちがいなく市隠だ。大学に入ったばかりのとき、保健体育の精神衛生という講義で出会った。講義の内容は生理学か行動心理学の系統で、人文社会系の私にはついていけなかった。試験でしくじった、と数少ない「可」がついて、私は思い知った。

M君のほうは、試験に哲学書を大量に持ち込んでいた。ヘーゲル哲学が彼の関心分野だったのだ。市民勉強会にも参加しているとやがて知った。カビの生えた哲学で精神衛生が分析できるか、とあきれたのが正直な私の感想だった。ヘーゲル哲学は富と権力に結びつかないのは現代の常識だ(フランシス・フクヤマは別として)。

私の成績は上で書いたとおりだったので、もし彼の成績が上だったとすれば、それは彼の真価というものだ。のちにこの科目のことが二人のあいだで話題にのぼると、彼は批評も自慢もせず、微笑んで相槌を打つだけだった。

M君は池袋のせまいアパートに住んでいた。ラジカセで好きな中島みゆきを聴いていた。偶然、知り合った別の人が同じアパートに住んでいた。働く学生には家賃が安くて人気だったのだろう。池袋で彼としたのはラーメンを食べたことだ。彼は飲めないビールを頼んで私につき合った。東京は彼にとって文化を吸収した町だったのだろう。

M君は三重県の人だ。保健体躯の授業で見知らぬ彼に話しかけられたとき、少しなれなれしい感じがした。四日市より南で使われる方言のためだった。彼とは松坂にある本居宣長の鈴屋にも行ったが、商人向きの方言だ。故郷に帰って、福祉関係の仕事に彼は就いた。

私も仕事で愛知県に居を移したので、つき合いは再開した。偏見だったらお詫びするが、三重県の方は伝統への愛着が十倍くらい強い。関町にも行った。近くにはシャープの液晶工場で有名だった亀山市があるが、関は宿場の街並みを残した古風な町だ。中学の郷土研究部で東海道を歩いた私には得意分野だ。しかし、M君は自分が運転する車のなかで日本文学の話をする。そちらは私の苦手分野だ。

次に行ったのは奈良だ。東大寺や薬師寺に遊んで楽しいはずだったが、罪悪感に私は耐えらなかった。2011年の東日本大震災の翌日だったのだ。観光地に置いてあるテレビでは、家々が津波で流されていた。M君には申し訳なかったが、早々に切り上げて帰宅させてもらった

たしかそのあとは未婚の皇女が送られた斎宮の跡だった。三重の人は当然と言えば当然だが伊勢神宮が好きなのである。好きなのだからしょうがない。古代には、伊勢を押さえれば海路で東国ににらみを利かせることができたのだろう。うまいものや絶景で人をつらない純粋なM君の偉いところだ。

顕家がここを本拠としたわけでないが

歴史ではもうひとつ忘れてならないものがある。南朝を支えた北畠氏だ。実は私も南朝にあこがれている。私が今、住む三河にも南朝の伝説があるのだ。信長の野望のような戦国時代を舞台としたゲームに出てくる霧山城は大和につながる山里にあった。津市には結城宗広を祀る結城神社がある。

伊勢には中央権力に抗った歴史があった。伊勢に限らず、中央の正統性が失墜すると、日本列島は千々に乱れる。中央権力が回復すると、人々は何食わぬ顔で市隠へと戻る。遺跡だけが、抗った歴史を物語る。

そして2024年の5月3日だ。空は晴れ、風はなく、からっとしたお出かけ日和だ。名古屋発、志摩半島の賢島行きの近鉄特急はゴールデンウィークを満喫する客で満員。他の客よりも先に津駅で降りる。

浪人をしたM君は年上のはずだが、見た目で老けた印象はしない。元気でよかった、が結論だ。これからの観光は「余興」だ。

石垣が立派なのは江戸時代も田丸藩2万石があったから

南朝の大宰相というべき北畠親房が建てた田丸城を訪う。伊勢平野南部の交通の中心地にある。信長の息子、織田信雄、も居城に選んだ。彼は旧支配者の北畠一族をこの城で皆殺しにした。中央権力の回復は地方権力の抹殺から始まるのだ。

田丸城址がある玉城町は朝日新聞社社主村山龍平の生地

このあと、とろろ定食で腹ごしらえをして、阿坂城に向かう。志摩半島の付け根にあって、南に進むには避けて通れない要衝の地だ。室町中期に北畠家が足利幕府軍を退けた栄光の地だったが、最後は木下藤吉郎に落とされた。M君は頂上まで登るつもりだったが、私はケガをするのが恐かったので頼んで途中で引き返してもらった。

次はいつ、M君に会うのだろう。病気やケガもなく、何年後かに会うことができたら、お互い市隠の人生を無事に送っている、ということだ。二人の再開がどうであれ、南朝の遺跡は残り、何かを人々に問いかける。


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