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時空の訪問者

『もし、一瞬でもいいから
あの時に戻れたらと思ったことは
ありませんか。』


間もなく48歳になる沙都子(さとこ)には、10歳下の恋人、渉(わたる)があった。
付き合って5年になる。
線が細く決して目立たない、会計事務所勤めの沙都子とは対照的に筋肉質で見栄えのする渉は雑誌のモデルもしている舞台俳優で、人目を引く男であった。
出会いのきっかけは、友人の佳代の趣味、舞台公演に嫌々付き合ったことだった。佳代とは小学校からの付き合いで、出不精で無趣味な沙都子を彼女は何かと連れ出すのだった。
舞台を見終わり、やれやれ帰ろうとした時、渉から声をかけられた。
「観に来てくれてありがとうございます。舞台、お好きなんですか?」
沙都子は、友人の付き合いで仕方なく、ともいえず、
「ええ、まぁ。」と答えた。
その後、なんとなく流れで連絡先を
交換したのだった。
なんとなくの流れを作ったのは佳代だ。
「渉さん、沙都子ね、あなたみたいな人がタイプなの」
これまで何度か渉の舞台を見ていた 天真爛漫な佳代は、気軽に彼と話せた。
確かに、そういわれてみれば沙都子のタイプに当て嵌まってはいたが、
「連絡しますね」という彼の言葉は
その場の社交辞令だろうと思っていた。が、それから渉は、頻繁に沙都子をデートに誘った。遠出したことは無かったが、それでも博物館や水族館、公園や遊園地にも二人で出掛けた。
沙都子は彼が、どうして自分に興味を持ったのか分からないまま、幸せの裏側で、いつも何かが不安だった。
半年ぐらい経ったとき、彼が仕事終りに寛ぐ場所は、決まって沙都子のアパートになった。
二人だけの空間で子供みたいに寝そべる彼が愛おしかった。
アパートの近くに、ひっそりと地味な神社があり、しかし御神木が見事だった。沙都子は、そこを通るたびに、よく手を合わせた。
「彼との時間がずっと続きますように」
沙都子は一度、彼に聞いたことがある。
「神様に叶えて欲しいことある?
近くに神社があるから代わりにお願いしてあげる。」
ちょっとだけ間を空けてから、
「そうだなぁ、沙都ちゃんと、こうして、ずっと寛いでいることかな。」
そう言って彼は得意そうに、そして柔らかい笑顔を沙都子に向けた。
が、彼は沙都子の部屋に来なくなった。
そのうちに彼と会う場所は、沙都子のアパートから煙草が吸える喫茶店になっていた。
彼は会うとすぐ「何か面白いことあった?」と聞いてきた。
沙都子は「うん。特にはないかな。」と答えた。特別な話はしないまま、二、三十分が過ぎ「そろそろ出ようか。」と彼が切り出し、彼女は少し残していた珈琲を慌てて一気に飲む。
毎週、同じ時が流れていった。
梅の儚い匂いが微かに部屋の窓から漂う頃、彼と会える場所は、煙草が吸える喫茶店から最寄りのS駅になった。
沙都子が、それを望んだわけではない。いつの頃からか、そうなっていた。
その駅は、彼の稽古場から近く、
沙都子のアパートからも二駅という、
会うには不便は無かった。
稽古終わりに「今から駅で。」と連絡が来るのを待って、沙都子は暗い闇の中、部屋を出る。駅近のコンビニで、頼まれていた煙草と珈琲を買い、改札に向かう。深夜0時を過ぎたその時間、S駅にいる人は疎らだ。
何処か虚な目をしたサラリーマン風の中年男性や、物凄く派手な身なりの若い女性が時折、目線の先に入ってくる程度である。
春の暖かさには未だ遠い夜の空気に翻弄されながら、沙都子は彼を待った。
彼を見つけることは容易い。
背が高く、逞しい肉体美と日本人離れした端正な顔立ちを兼ね備えた人を探せばいい。
大体いつも10分か15分待ったころに
沙都子は彼の姿をとらえる。
「お疲れ様!」と彼に声をかける。
彼は、それには応えず
「早く休みにならないかなぁ」と言いながら遠くを見る。
「そうだね。休み楽しみだよね。」と
沙都子は相槌を打つ。が、沙都子に
その休みは関係ない。
何故「一緒にどっか行かない?」とか
「家行っていい?」と言えないんだろう。彼の休みに会えないことを、それを言ったら全てが壊れてしまうような気がしてしまう。

S駅で彼に会う所要時間は、せいぜい10分。5分のときも普通にある。
煙草と珈琲を渡すと「早く休みにならないかなぁ」と渉が言い、
「そうだね。楽しみだよね」と沙都子が相槌を打ち、ただ別れる。
それだけだけど、この時間が無くなることが沙都子は怖い。
渉は沙都子の魂の核の中枢に、すっかり入ってしまったいるからだ。
それが無くなるということは、
家の太い柱が抜き取られのと同じことになる。抜き取られた後の、ぐらつき方は、恐ろしく想像出来る。
嫌われたくない。面倒くさい女になりたくない。物分かりの良い、都合の良い女でいいから、、繋がっていたい。

S駅で会うようになって3年が経った或る日の金曜日、いつものように待ち合わせた渉の姿を探していた沙都子は、自分と瓜二つの女とすれ違った。
違うのは髪の長さだけだった。
女は肩のラインで揃えていたが、
沙都子は背中あたりまで伸ばしていた。
あとは全て同じ。
女は、沙都子だった。
勿論見間違いだとは思いながら、気になって後をついていくと、入ったことがないラーメン屋の前で見失った。
ラーメン屋の扉を恐る恐る開けてみたが、その女はいなかった。
「なんだ、気のせいか」と半分ほっとし半分がっかりした沙都子の背後から突然聞き覚えのある声がした。
「沙都ちゃん、待たせたね。」
、渉だ。
「ラーメン食べてから、沙都ちゃん家(ち)?」と笑顔で渉が言っているのを沙都子は、ただ、ぼんやり聞いていた。
よく見ると彼は、ずいぶん前に処分したはずのリュックを背負っている。
「渉、そのリュック、捨てたんじゃない?」
「あ、これね、もうかなり壊れてるでしょ。ほら、チャックとか。でも中々捨てられないよ。沙都ちゃんに買ってもらった大事なリュックだもん。」
彼がどうして、この知らないラーメン屋の前に来たのか、何故廃棄したリュックを再び背負っているのか、聞きたいことは山ほどあった。
しかし、沙都子は聞くのをやめた。
それを聞いたら、
やはり何かが壊れてしまいそうな気がして、
沙都子は何も聞かずに、
「ね、渉、私の家に来てくれるの?」
とだけ訊ねた。
「ん?何か都合悪い?」
彼は不思議そうな眼差しを沙都子に向けた。
「ううん、そうじゃなくてさ、、いいの?」
「いいも悪いもないじゃない。
毎週の大事な僕達のルーティーンでしょ!」
そう言うと渉は、無邪気に笑った。
こんな彼の明るい笑顔、最後に見たのはいつだっただろう。
まっすぐに沙都子に向けられた彼の笑顔は優しかった。
並んで歩きながら
「きょうは、どうだった?
嫌なことあった?」と聞いてくれる彼に、「うん。特には無いかな」と
沙都子は喜んで答えた。
そこには「沙都ちゃんの部屋で寛ぐ日が楽しみだから仕事頑張れる」と言う彼がいた。
凄く嬉しいのに、
今見ている景色を頭も心も処理が出来ない。

沙都子の住むアパートまで200メートル程のところに、古い薄茶けた橋がある。
その橋にさしかかると、いつも沙都子はワクワクした。
渉と二人きりの大事な時間が、もうそこにある。
その感覚が今、ようやく戻ってきた。
「渉、なんだか久しぶりだね」と
沙都子は恥ずかしそうに隣を歩く彼を見た。、はずだった。
しかしそこに彼の姿は無かった。
携帯が鳴った。
LINEの音だ。
渉からだった。
「どこにいるの?もう30分待ってるよ。俺明日仕事早いんだけど。」
柔らかかった空気が一気に硬く冷たくなった。
渉は、いつもと変わらぬS駅にいた。
つまらなそうで無表情なその顔も、
いつも通りだった。
さっきまで壊れかけのリュックを大事そうに背負っていた笑顔の彼は、どこに行ったのだろう。
沙都子は、まっすぐに彼女を見てくれていた彼を無意識に探した。

次の日、アパート近くの神社に久しぶりに行ってみた。何かにすがりたかった。
手を合わせていた木は枯れていた。
そこに必死にしがみついている僅かな葉も、
しがみついたまま枯れていた。
春とは呼べない冷たい風が容赦なく
枯れた葉にも沙都子にも突き刺さった。
沙都子は、祈るように呟いてみた。
「私は、今、どこにいるの
どこに行くの」

返事は、無かった。



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