いくえさん

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名前のない書物(第十一回)

神殿Ⅳ.    この年の雨季は、国人が〈蛇の婚礼〉と呼び習わす、十年に一度の大雨季であった。  例年であれば、一日の半分ほど降っては止み、止んでは降りをくり返す降雨がまる一日続き、それが連日に及んだ。しかもそのことごとくが、天の水瓶がひっくり返ったかと思われるほどの豪雨なのだった。  ヤン河の流れは常にもまして濁り、水位は日増しに高くなっていった。ついにそのときが訪れた。〈大氾濫〉である。毎年の肥沃な土を運んでくれる恵みの氾濫とは様相を異にし、あらゆるものを押し流す、兇悪な奔

    • 名前のない書物(第十回)

      図書館4、    その日のうちに、アパートのぼくの部屋に、市警の警官がやって来た。〈図書館警察〉の連絡を受けてのことだ。理由は定かでないが、渦巻町は行政上、《渦巻市渦巻町》になるらしい。したがって、図書館を除く渦巻町全域を管轄する法執行機関の名称は、〈渦巻市警察〉になる。  四十年配の北東アジア系男性と、二十代半ばの東南アジア系女性の二人づれで、生活安全課失踪人係を名のった。〈図書館警察〉の双子警官に比べれば、ずいぶんと生活感ーーというより現実味ーーがある。 「恐れ入りますが

      • 名前のない書物(第九回)

        らせん【捌】    その次の日のこと。  リテル君は、学校がひけるとお友だちと遊ぶのもことわって、近くの待合所から市営バスにのりました。お母さんとお出かけしたことがあるので、バスにはなれたものです。  リテル君がおりたのは、らせん市のまん中のG**町でした。  リテル君はどうしてG**町にやってきたのでしょう。それは昨日の冒険、失敗した冒険のせいでした。  ニセモノがどうやって消えたのか。ゆうべはそのことを、ああでもない、こうでもない、と考えていて、眠れなくなってしまいました

        • 名前のない書物(第八回)

          神殿Ⅲ.    それが起こったのは雨季に入って最初の大雨のときで、後々わたしたちをみまった一連の運命の鉄槌のはじまりの一撃だとは、当時はまだ知る由もなかった。羚羊の月の廿日、干天を潤した久々の慈雨の翌朝に、神人のひとりが〈大神殿〉前の、ヤン河の船着場で溺れ死んでいるのが見つかったのである。  溺死体で打ち上げられた神人は、前々から素行に問題ありと思われていた壮年の男で、それが重大事を見過ごす理由になってしまったというのは、後理屈にすぎないのかもしれない。とまれ彼奴は呑んだくれ

        名前のない書物(第十一回)

          名前のない書物(第七回)

          図書館3、    眠りの訪れを切望して、寝床の中で悶々と展転反側し続ける時間ほど、神経をささくれ立たせ、心を削ることはない。眠りたい、眠るべきだ、という強迫的な想念と焦燥がジリジリと精神を灼き、やくたいもない想像が亡霊みたく脳内を徘徊する絶望感は、苦行以外のなにものでもなかった。  睡眠導入剤による入眠には、助走がなかった。人によって効き方は違うだろうが、少なくともぼくの場合はそうだ。  予告も何もなく、意識がブラックアウトする。翌朝の、蒲団にくるまれた覚醒で初めてそれが、眠

          名前のない書物(第七回)

          名前のない書物(第六回)

          らせん【柒】    夕日が、だいだい色からあかね色にかわって、地面にながい影法師がのびていました。リテル君は得意の尾行をつづけていました。  前回のお話をお読みのみなさんは、リテル君が誰を尾行しているのか、もうお分かりでしょう。前方にいるのは、アイリス姉さん、いや、アイリス姉さんになりすましているニセモノです。  あの決心の日からリテル君は、注意して部屋の窓をみはるようにしていました。するとニセモノのアイリス姉さんが、二三日にいちど、かならず空き地をとおって出かけることがわか

          名前のない書物(第六回)

          名前のない書物(第五回)

          神殿Ⅱ.   「ゾラ! いったい何があったの?」  マナン将軍が思いがけない〈休養〉を余儀なくされた日の晩のこと、わたしはゼフィールに、わたしたちの居館で、日中の顛末を話すことになった。  〈大神殿〉の裏手には、神聖娼婦たちが寝起きする〈巫女の館〉がひかえているが、わたしたち姉妹が住まうのは、斜面をさらに登った、丘の中腹にある簡素な小ぢんまりとした館だった。〈ルナルの丘〉は、丘全体がネルガル神殿の聖域となっているが、〈大神殿〉は麓にあり、大巫女たるわたしたち姉妹の居館は五合目

          名前のない書物(第五回)

          名前のない書物(第四回)

          図書館2、    ホールの真ん中のベンチでうつむいたまま、さらに二時間ねばった。夜が更けるにしたがって、館内から、ひとりまたひとりと利用者たちが去っていった。十九時の鐘をしおに、先の初老の図書館員が、ぼくを家に帰るようにうながした。 「一度、お休みになられてはいかがですか?」  ここでまた倒れられたらかなわない、と思うのは、もっともな感覚だろう。見返したぼくの強ばった表情がどんな風に映ったものか、彼は困惑したように顔をしかめた。  いつものぼくなら、純粋な親切心と受け取っただ

          名前のない書物(第四回)

          名前のない書物(第三回)

          らせん【陸】    そのころ、らせん市の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように〈いぶりくるったばんだあ・すなっち〉のうわさをしていました。  〈ばんだあ・すなっち〉というのは、日ごとに新聞紙面をにぎわせている盗賊のことです。ちょっとかわったクセのある盗賊で、そのクセというのが、狙いさだめた家に予告状を送りつけるというものでした。送りつけられる家というのは決まって、政治家や高級官僚、富豪、財産のある宗教家などで、ご

          名前のない書物(第三回)

          名前のない書物(第二回)

          神殿Ⅰ.    母は玲瓏で強大な力の持ち主だった。母からわたしは〈力〉を、妹は〈美〉を受け継いだ。  このちょっとした、しかし決定的な産み分けは、必然として、わたしたち姉妹に役割分担をもたらした。すなわち、妹は神殿の前面に立ち、巡礼や民草や諸侯らに語りかける表の貌を受け持ち、わたしは神殿の奥津城にひそみ、神力をふるう裏の貌を受け持った。  だからといって誤解をしないで欲しいのだが、わたしたち二人は、とても仲のよい姉妹だった。我が身にのしかかる運命を、お互いをたった一人の血を分

          名前のない書物(第二回)

          名前のない書物(第一回)

          《人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ》(チャールズ・チャップリン)   図書館1、   *  図書館へ行こう、きみと一緒に。   *  そのときぼくは、いらだっていた。あるいは少し憤慨していたのかもしれない。不機嫌なのは、不眠症によるいつもの頭痛のせいだけではなかった。予定の時刻に、スウが姿を見せなかったからだ。  待ち合わせ場所は、図書館のエントランス・ホールだった。玄関口からガラスの自動ドアを入ると、真っ先に出迎えてくれる

          名前のない書物(第一回)

          とりとめのないファンタジー

          とりとめのないファンタジーを書きます。 ごちゃごちゃしていて、まとまりがなく、不恰好で、アンバランスなお話になる予定です。 「キャラに魅力がない」「文章が独りよがりで読みにくい」「プロットが平板で盛り上りに欠ける」「何が言いたいのかさっぱりわからない」「読者が何を面白がるかリサーチしたほうがいい」とか、「設定が甘くて破綻している。もっと勉強しなさい」「描きたいことを整理したほうがいい」てな感想を持たれる話になる予定です。ご寛恕を。 また、作中で、多くの先達の作品をパクっ

          とりとめのないファンタジー

          読み切り短編「天馬狩り」

           天馬を創ったのは、すでに滅びた種族である。今や姿かたちすら分からないその種族は、上空に巨大な構造体を幾つも浮かべ、構造体のあいだを天馬にまたがって自由自在に往き来した。  主のいなくなった構造体は、ひとつところに留まることが出来なくなり、今では〈はぐれ島〉と呼ばれている。雲のように漂うそれは、時おり宙をよぎり、快晴の日に、迷惑千万な翳りを地上に落とすのだ。   *  さて現今、天馬狩りは、高地族の若衆が、成年を迎えるにあたっての通過儀礼となっていた。  むろん、天馬の〈渡り

          読み切り短編「天馬狩り」

          読み切り短編「唄うたい」

           唄うたいのほっそりとした指が最後の和音を奏でると、妙なる調べの余韻が豪奢な私室に深々と拡がったのだった。  その房室のしつらえは、精緻な織りの壁掛けといい、銀の水差しといい、紫檀の小卓といい、どれ一つをとってもおよそ、平民の一生涯で贖えない逸品ばかりであった。 「玄妙なる哉!」  煙管を片手に紫煙を燻らせていた男は、夢見心地で聞き惚れていたが、我に返ると火皿を逆さにして、燃えかすを灰皿に落とした。そして唄うたいの美声と撥弦楽器の技倆を誉め称え、鷹揚に手を叩くのだった。男の部

          読み切り短編「唄うたい」

          短編小説「file:0 幻燈城市」(最終話)

          14、 「男の正体がわかったよ」  四人がけのボックスシートにドサリ、と腰かけたコーリャ小父さんは、メニューも見ずに店員さんに、パンケーキと紅茶を注文した。  火曜日の晩わたしは、再び第七区の喫茶店にやって来ていた。わたしの目の前にはすでに、サンドイッチの皿とミックスジュースが並んでいる。  小父さんは、反射的に取り出していた煙草の箱を慌ててしまいながら、話し出した。 「名前はテレンス・ロートン。金持ち専門の探偵、あるいは、一流の覗き屋かな」 「覗き屋?」 「ロートンは、上流

          短編小説「file:0 幻燈城市」(最終話)

          短編小説「file:0 幻燈城市」(第五話)

          11、 「ダメだよ、シオンちゃん。これ以上はもう危険だ」  夕方、警察から解放されたわたしを事務所まで送ってくれたコーリャ小父さんは、わたしが事件に関わるのを牽制した。  来客用のソファに腰かけ、向かいに座ったわたしの目をしっかりと見据えている。真剣な眼差しで。あるいはわけしり顔で「こういう場合にきっちりと子どもに忠告するのが本当の優しさだ」などと述べる人もいるかもしれない。しかし、頭ごなしに禁止しないコーリャ小父さんの言葉のほうが、わたしの胸に、よりいっそう刺さった。  小

          短編小説「file:0 幻燈城市」(第五話)